日記について調べながら新しい「概念」を100個日常に導入する試論

というテーマを立てて書いていこうと思います。

日記とは何か?なぜ定義することを試みるのか?

https://cyblog.jp/27011

言葉は心象を固定し、概念を同定します。心(頭)に浮かぶものを、記号と対応させる

最初は、人を乗せて運ぶ大きな乗り物すべてが「新幹線」と定義され、その後現実的経験とフィードバックの蓄積により、「電車」「飛行機」「トラック」という別の言葉が定義されていく中で、「新幹線」の意味が精緻化(再定義)されていきます。

言葉を定義することは、世界を知ることとイコールです。つまり、定義を増やすこと(≒語彙が増えること)と並行して、その人間の世界の知覚は広がっていく

《新しい言葉》には、これまで存在しなかった新語だけではなく、新しい意味(文脈)をまとった既存の言葉も含まれます。どちらであっても、対応する言葉を持たない心象を表現するための記号が生まれ出たならば、それは《新しい言葉》と言えます。

その《新しい言葉》は、それ自身が一つの成果物でありながら、別の新しい概念を引っ張り出す触媒ともなりえます。その言葉によって、他のものを包括する説明ができたり、あるいはそれに触れた他者に、思考の刺激を与えたりするのです。そうしたダイナミズムが知的生産活動の面白さでもある

新しい言葉を定義するためには、参与し、観察しなければいけません。そこで、今までになかった心象と巡り会ったり、すでにある言葉に違和感を覚えるからこそ、新しい言葉への欲求が高まるのです。それ以外は言葉遊びに過ぎません。

再定義について(これは芸術ではない)

https://note.mu/whole9/n/n49cbb4ec5fb7

というのもいま関わっている企画の小説「マチネの終わりに」を読んでいて「芸術の価値の定義が変わってきている」ってところが出てくるんですよ。もう少し掻い摘んでいうと、「芸術の価値というのはカントの定義以降〈美しい=beautiful〉か〈崇高=sublime〉だったものが、20世紀後半、特に現代ネット社会以降では〈カッコイイ=cool〉〈スゴイ=awesome〉になってきた」という事なんですね。

いま現在、自分を取り巻く環境ではその通りだし、それに輪をかけて〈ヤバい〉ってワードにまで言葉が変わってきています。

とある初対面の芸術家から「君がやってることは芸術じゃない」といった旨を言われたんですよ。お酒の席で紹介してもらった東京藝大出身の方だったんですが、その方とはどの作家が好きか、みたいな話をしていました。話が進んでその方が僕の好きな作家を否定しだしたので「(貴方ほど芸術ってことを考えてないので)僕がやってることは大きな絵を描く看板屋だ」と言ったところ、やはり先の言葉を頂戴したというわけです。

音楽に例えればわかりやすいと思うんですが、雅楽やってる人がJPOP(もっといえばHIPHOP)やってる人に「君がやってることは音楽じゃない」って言ってるようなもんだと思うんですよね。「伝統的に継承される新陳代謝自体が重厚で高尚なもの」と「今を捉えた軽薄で回転の早いビビッドなもの」とじゃ大事にしている物が1から10まで違うと思うんです。だからどちらかを否定するつもりじゃ無くて、単純にその舞台を仕切っているルールが違うんだから、あとは各々の好みだろって考えてしまいます。

定義について2:これは批評ではない

http://nagase-m.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3203.html

「それは批評じゃなくて単なる感想だよね」
「批評じゃなくて批判じゃん。というか悪口じゃん」

歌会とかTwitterのつぶやきでよく聞く台詞ですよね。
聞き覚えのある人も多いはず。

でもこれって一体どういう意味なんでしょう?

ここまでの説明で感想と批評の違いはいろいろわかりました。残る疑問は「で、それなんの役にたつの?」ってことですよね。

ということでここでは感想と批評の意義/提供価値について考えてみます!

ところで「提供価値」というくらいなので「提供するもの(何を)」だけでなく、「提供する相手(誰に)」も必要ですよね。

そこで、「(感想/批評の)読者」「作者」「評者自身」という3つの立場でそれぞれどのような価値を提供することができるのか

まとめると、精緻化(定義)することで、新しい概念に触れることができ、知覚が広がっていく、ディグる、ググるようなもの、至るジャンルで再定義化が行われている、定義が定着化すると、そこから逸脱するものが登場し、さらなる再定義が繰り返される、

日記には日付がある、それは何を知らせるものか?

「日付のある」○○

https://www.otsuka-shokai.co.jp/erpnavi/topics/column/digital-evidence/e-kakuteijikoku.html

「確定日付」と「タイムスタンプ」について整理します。

確定日付とタイムスタンプは、どちらも、情報の存在証明をするという目的は同じです。

何も保全していない記録は、後日簡単に偽造できてしまうし、
複数間でやりとりする契約についても、共謀・通謀することで、偽の資料をが作成できてしまいます。
このために、 否認されてしまうというリスクへの対抗策が、確定日付であり、タイムスタンプなのです。
作成日時や前後関係について争いになったときに証明するために第三者が介在して作成日時を付与する制度ですね。

確定日付は、民法施行法で規定されています。
民法施行法は、今からちょうど10回前の戌年、120年前の1898年(明治31年)に公布されています。
もちろん、タイムスタンプなんてありません。

タイムスタンプは、日本語であえて 命名すると「e-確定時刻」でしょうか。
明治の時代には実現できなかった、正確で確実な時刻を付与する制度ですね。

明治の時代では、存在証明のためには、信頼のおける第三者(ヒト)に依存するしかなく

日付のある映画論

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E4%BB%98%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%AB%96%E2%80%95%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%94%B7%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC-1979%E5%B9%B4-%E6%9D%BE%E7%94%B0-%E6%94%BF%E7%94%B7/dp/B000J87CPO

インスタにはなぜ年月の日付がないのか?

SNSなどでよくある日付を何分前、何時間前などで表示する

https://ameblo.jp/mycal-toyoki/entry-11298273771.html

インターネットのアーカイブ性故の時制誤認
これはどういうものか。簡単に言ってしまいますと、過去に書かれた記事を何らかの手段によって現在目立たせ、それを最近のもののように錯覚させることで生まれる誤解から生ずるデマです。

ネットで記事を見る場合、それが昨日今日、もしくはつい最近書かれたものと思いがちです。特にニュースの場合その傾向が強いように思われます。これは新聞やテレビのニュースのような速報メディアを見るのと同じ感覚を受け継いでいるからというのもあるでしょう。
しかし、ネットはご存じの通り記事においてアーカイブ性が強くあります。故に過去のニュースでも最新のニュースと同じように閲覧することが可能です。その過去のニュースを見ることが出来るという性質はネットの大きな利点でもあるのですが、反面、見る側の意識によってはデメリット、すなわち事実の誤認が生じてしまうこともあります。それの最たるものが時制の誤認。

http://namihira.hatenablog.com/entry/2014/04/19/235757

現時点でのまとめ、「日付のある○○」とはつまり、本来日付のないものに日付を付与したものである、日付をつけることで本来とは異なる意味が生まれる、

インターネットでは強いアーカイブ制ゆえ時制誤認が生まれやすい、フィジカルで生まれる劣化がないことで古い情報か、新しい情報かを判断することも難しい

インターネットは非同期型から限りなく同期型へ移行している、日付ではなく、何分前、何日前という記載へ移行している、強くアーカイブされる、

日記を盗み見ること、なぜ見られたくないものを記録するのか、プライバシーとは、

他人のLINEを勝手に見ることは犯罪になりますか。

「刑法には信書開封罪があるが、LINEは紙でないため該当しない。また不正アクセス禁止法はコンピューター・ネットワークにアクセスして情報を盗む行為を対象としている。他人のIDとパスワードでネットワークにアクセスする場合は該当するが、スマホの画面を見るだけでは対象にならない」

――LINEにもアプリにパスワードを設定する機能があります。

「他人のID・パスワードでネットワークにアクセスする行為は、不正アクセス禁止法で3年以下の懲役、100万円以下の罰金と規定されている。夫婦が浮気を調べるために相手のLINEにアクセスした場合なども不正アクセス行為に該当する」https://www.nikkei.com/article/DGXKZO97880240R00C16A3H56A00/

現代でも盗読行為は存在する、

昔は家族が日記を出版することなどがあった、

http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/a_privacy.htm

情報化社会がどういった時代なのか、という点については、 いろいろな考え方がありますが、ここでは、 おおよそ次のように整理しておきましょう。

情報というのはタダで手に入る物ではありません。 仮にお金を払わなくても良いとしても、ある情報を手に入れるためには、 知っている人を探して尋ねたり、図書館で本を探して読んだりなど、 時間と手間がかかるわけです。この時間や手間も費用だと考えますと、 情報を受け取るのにはそれなりの費用がつねにかかっているわけです。 逆に情報を誰かに伝えるのもタダではありません。 自分の考えを誰かに伝えるためには、長い時間をかけて言葉で伝えたり、 文章にまとめたりしなければなりません。 こうした時間と手間という費用を乗り越えて情報を発信することは、 普通の人にはなかなか大変な作業です。

この視点から考えますと、情報化社会とは、 飛躍的に発達した情報機器のおかげで私たちが情報を手に入れたり、 逆に発信したりする費用(以下「情報コスト」と呼びます) が劇的に低下した社会だということができるでしょう。それまで、 ある事柄に関する情報を収集し、 誰にでも良く分かるように整理して発信するような作業にはとても費用がかかってい ましたから、出版社、新聞社、 放送局といったメディア企業程度の資本力や組織力が必要でした。もちろん、 自分一人でそうした作業をする人たちもいましたが、 それには情報コストを乗り越えるだけの「何としても調べたい」 「何としても伝えたい」という情熱が必要だったわけです。

このように情報の収集や発信にたくさんの費用が必要でしたから、 収集される情報や発信される情報は、その費用に見合った内容のものに限られました。 政治家や大きな会社の社長の私生活、みんなの注目を集めている芸能人の私生活は、 費用を掛けて集めたとしてもそれに見合ったなんらかの利益を期待することができま した。逆に、あなたの家の夕ご飯が「さんま」だったか、「ぶり」 だったかを調べたとしても何の利益にもならないでしょう。ですから、 メディアの標的になる人達はごくわずかであり、 メディアから個人生活を防衛するプライバシーの権利もまた、 そうした人達にだけ関係があるものだったのです。

ところが、(1) それまで警察や国防に関係する人たちだけが使っていた盗聴機や隠しカメラのような 道具が雑誌で通信販売され、(2) 個人でコントロールできる情報探索・ 発信のメディアとしてインターネットが現れ、(3) 発達したデータベースにより個人的なささいな事柄でも、そう、 たとえばあなたの家の夕ご飯が「さんま」か「ぶり」 かといったような事柄でもマーケティングのための重要情報とされるようになります と、 普通の個人に関する事柄でも調査して利用することが経済的に引き合うようになって きてしまったわけです。

さらに悪いことに、 冒頭で述べましたように人間には他人の行動や生活が気になって仕方がないという本 性があります。これは社会的動物として当たり前の本性です。それゆえ、 そうした情報機器をつかって他人の情報を調べて発信するというのは、本質的に 「楽しい」ことらしいのです。情報コストが安くなれば、 それまでよりも興味をひかなかった人や事柄についても調べてみよう、 という気になりますね。

情報機器によって情報収集・発信の費用が低下したことは、 悪いことばかりではありません。先ほど述べたように、それまで情報の収集・ 発信にはかなりの費用が必要でしたからある程度の資本力あるいは特別な情熱(利害) をもった人達だけが社会において情報発信の能力を持っていたわけです。 こうした現象は20世紀において顕著であり、マス・メディアは「第四の権力」 とよばれるまでに力をもつようになりました。それらメディアは、 情報をコントロールする力を独占し、 私たちをいつでも情報の力で葬ることができました。たとえば嘘の報道である「虚報」 や誤った報道である「誤報」 によって社会的な生命を絶たれた被害者はたくさんいます。また、メディアは、 自分達に都合の良い報道や宣伝を行うことで私たちを欺くことさえできるのです。

そうした権力をもったマス・メディアの「良心」に期待してばかりもいられません。 インターネットに代表されるような個人がコントロールすることができるメディアは、 私たちを支配する権力そのものや、巨大な権力となったマス・ メディアに抵抗する能力を私たちに与えてくれたのです。情報化社会は、 これまであまりに偏って存在していた「情報をコントロールする力」 を民主化したともいえるわけで、 情報力の均衡という点では望ましい面を持っています。このことはまた、 私たちの生活へのメディアからの侵害に対して、反論・ 抵抗する能力を私たちが獲得したことを意味しているわけです。

さて、もともと「プライバシーの権利」 がメディアの情報力に対抗するための権利として現れてきたと述べました。 また現代の情報化社会が「情報をコントロールする力」 を私たちに与えてくれたことも分かりました。こうしてみますと 「プライバシーの権利」が盾とすれば「情報をコントロールする力」 は矛の関係に立っていることが分かると思います。そして、 現代のプライバシーの権利は、こうした情報化時代を背景に 「一人にしておいてもらう権利」という消極的な面だけでなく、 「自己の情報をコントロールする権利」 として積極的な面をもつようになってきました [6]。ですから、 プライバシーと情報化社会を対立するものとして把握することは、 後ろ向きな考え方だといえるでしょう。

現在までのまとめ、盗読行為は現代にも存在する、

プライバシーの形は変わりつつある、プライバシーは一部の人間だけのものであったが、情報

日記の並び読みについて

 

 

翻訳:ソニックフィクション、聴覚自己陶酔&消失の美学

http://picnoleptics.blogspot.com/2009/11/hauntology-derridas-specters-of-marx.html

Derrida’s 1993 published book ‘Specters of Marx’ and in particular the concept of ‘hauntology’ (derived from the word ‘ontology’ said in a French) has its roots in a quote by Marx from 1848 that a “spectre is haunting Europe, the spectre of communism.”

デリダの1993年の出版された本「マルクスの幽霊」、特に「オントロジー」の概念(フランス語で「オントロジー」と呼ばれています)は1848年のマルクスによる引用に根源を持っています。共産主義の幽霊。

The concept of ”hauntology” as a nature of being is an idea which inherently embeds the realm of the past in the that of the present, the ghosts of the past return to haunt us. Derrida’s also draws heavily on a quote from Shakespeare’s Hamlet – “the time is out of joint”. To steal this useful quote from Deleuze taken from this blog:

存在の本質としての「ハントロジー」の概念は、本質的に過去の領域を現在のものに埋め込んだアイデアであり、過去の幽霊が私たちを迎え入れるためのものです。デリダは、シェイクスピアのハムレットの「時の流れのつぎぎ目は途切れてしまった」との引用にも大きく依存しています。このブログから取られたイリュージョンのこの有益な引用を盗むには:

” The time is out of joint. Time is out of joint, time is unhinged. The hinges are the axis around which the door turns. Cardo [hinge of the door, the semantic root of “cardinal” numbers], in Latin, designates the subordination of time to the cardinal points through which the periodical movements that it measures pass. As long as time remains on its hinges, it is subordinate to movement: it is the measure of movement, interval or number. This was the view of ancient philosophy. But time out of joint signifies the reversal of the movement-time relationship. It is now movement which is subordinate to time. [ . . .] Time is no longer related to the movement which it measures, but movement is related to the time which conditions it.” (Deleuze, Kant’s Critical Philosophy, vii, 1963).

Cardo [ドアのヒンジ、 “基数”の意味論的根拠]は、ラテン語で指定されていますそれが通過する定期的な動きが通過する基点への時間の従属。時間がそのヒンジに留まる限り、それは運動に従属する:それは動き、間隔または数の尺度である。しかし、時間外の動きは、もはやそれが測定する動きには関係しませんが、動きは時間との関係に関係しています。それを調整する時間。 (ドリューズ、カントの批判的哲学、vii、1963年)。

The resonance of this concept within music and ‘cyberpunk’ (or cultural cybernetics) more broadly has seen people like Simon Reynolds (see his blog for the backlash on the H word)and ultimately moreso Mark K-Punk theorise ‘sonic hauntology’. See here for an interview with Mark Kpunk about hauntology.

このコンセプトの音楽とサイバーパンク(あるいは文化的サイバネティクス)の共鳴は、サイモン・レイノルズ(彼のブログでH単語のバックラッシュを参照)、そして最終的にはマーク・K・パンク理論のソニック・ハントロジーのような人々をより広く見てきました。ここで、マーク・パンパンクとの親交についてのインタビューをご覧ください。

In terms of characteristics of cyberpunk elements of Science fiction, dystopic near future world views, ala William Gibson and the music K-Punk references juxtaposing Robert Johnson and Tricky and more recently comparing Burial to the ‘new rave’ movement, the sense of ‘time being out of joint’, a displacement of the movement-time relationship is certainly a theme with much to explore.

サイエンスフィクションのサイバーパンク要素の特徴、将来の世界観に近いジストティックな特徴については、ウィリアム・ギブソンとK-Punkの音楽はロバート・ジョンソンとトリッキーを並置しており、最近は埋葬と新レイヴの動き、 「共同体から外れている」とすれば、移動時間の関係の変位は確かに探求すべき多くのテーマである。

A symposium at the Museum of Garden History in May 2008 tackled the themes of hauntology and sound. Here is K-Punks online version of his presenation. A press release for the event can be found here.

2008年5月に開催された庭園歴史博物館でのシンポジウムでは、環境と音のテーマが取り上げられました。彼のプレゼンテーションのK-Punksオンライン版がここにあります。イベントのプレスリリースはこちらからご覧いただけます。

The current state of the wikipedia entry ‘Hauntology – musical genre’ is somewhat weak, as the 14-tracks selection dedicated to Hauntology and subsequent commentary demonstrates much better, to call it a ‘genre’ is misleading and the ‘sense of dread’ assigned to it, oversimplifies and doesn’t leave much room for the more interesting aspects to explore, especially for my purposes around the space-time-movement relationship.

ハウトロジーとそれに続く解説に捧げられた14トラックの選択は、それを「ジャンル」と呼ぶためにはるかに優れているため、ウィキペディアのエントリ「Hauntology – musical genre」の現在の状態はやや弱いです。それは、時空間の関係を中心に、特に私の目的のために、より単純化し、より興味深い側面を探索する余地をあまり残さない。

The original approach of Derrida on Marx’s work, especially given the historical and political situation in 1993 and as a challenge to Francis Fukuyama’s End of History thesis after the events of 1989 and the ‘fall of communism’ in eastern europe – these uncover many more complex issues of political ideology, particular given Derrida’s deconstructivist approach.

1993年の歴史的・政治的状況を踏まえ、1989年のイベント後のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と東欧の「共産主義の崩壊」への挑戦としてのマルディスの作品に対する当初のアプローチは、特にデリダの脱構築主義的アプローチを考えれば、政治イデオロギーの問題である。

My interests lie in examining sonic hauntology as elaborated by Mark K-Punk Fischer in his writings, as an auditive aesthetic phenomenon and as a cultural cybernetic phenomenon.

私の興味は、Mark K-Punk Fischerが彼の著述、聴覚審美的現象、文化的サイバネティック現象として精巧に描かれているような、ソニック・ハントロジーを調べることにある。

The space-time continuum and time-movement relationship also brings me back to Virilio’s dromologiy of media, although he never really directly addresses auditive phenomenology aside of audiovisual media, some analysis of Virlio’s texts could be useful in this context.

時空間の連続性と時代性の関係は、オーディオビジュアルメディア以外の聴覚現象を直接扱うことはありませんが、Virilioのテキストの分析は、この文脈で役に立つかもしれません。

翻訳英語版 ハートノロジー

https://en.wikipedia.org/wiki/Hauntology

ハートノロジー

Hauntology (a portmanteau of haunting and ontology) is a concept coined by philosopher Jacques Derrida in his 1993 book Spectres of Marx.

Hauntology(幽霊とオントロジーの舞台)は、1993年の彼の著書「マルクスの幽霊」で哲学者ジャック・デリダによって造られた概念です。

The term refers to the situation of temporal, historical, and ontological disjunction in which the apparent presence of being is replaced by a deferred non-origin, represented by “the figure of the ghost as that which is neither present, nor absent, neither dead nor alive.

この言葉は、存在の明らかな存在が、存在しない、存在しない、死んでいない、あるいは死んでいない、幽霊の姿で表される、遅延していない非起源によって置き換えられている、時間的、歴史的、生きていない。

“[2] The concept is derived from Derrida’s deconstructive method, in which any attempt to locate the origin of identity or history must inevitably find itself dependent on an always-already existing set of linguistic conditions—thus making “haunting the state proper to being as such.”

この概念は、アイデンティティや歴史の起源を特定しようとする試みが必然的に常に存在する既存の言語条件に依存しなければならないデリダの解体法から導かれているなど。”

In the 2000s, the term was taken up by critics in reference to paradoxes found in late modernity, particularly contemporary culture’s persistent recycling of retro aesthetics and incapacity to escape old social forms.

2000年代には、この言葉は近代後期に見られる逆説、特に現代文化のレトロな美学の持続的なリサイクルと古い社会形態を逃れることができないという批評家によって取り上げられました。

Critics such as Mark Fisher and Simon Reynolds used the term to describe art preoccupied with this temporal disjunction and defined by a “nostalgia for lost futures.”

マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズのような批評家は、この一時的な異端に精通し、「喪失した先物のための郷愁」によって定義される芸術を表現するためにこの用語を使用した。

Origins and definition

起源と定義

The concept has its roots in Derrida’s discussion of Karl Marx in Spectres of Marx, specifically Marx’s proclamation that “a spectre is haunting Europe—the spectre of communism” in The Communist Manifesto.

この概念は、デリダがマルクスの亡霊のカール・マルクスを討論したことに由来し、具体的には、共産主義宣言の中で、「幽霊がヨーロッパを悩ましている – 共産主義の幽霊」というマルクスの宣言である。

Derrida also calls on Shakespeare’s Hamlet, particularly a phrase spoken by the titular character: “the time is out of joint.”

デリダはまた、シェイクスピアのハムレット、特に象徴的なキャラクターが語ったフレーズを要求しています。「時間が合わない」

“Derrida’s prior work in deconstruction, on concepts of trace and différance in particular, serves as the foundation of his formulation of hauntology, fundamentally asserting that there is no temporal point of pure origin but only an “always-already absent present..” The word functions as a deliberate near-homophone to “ontology” in Derrida’s native French.

デリダの先例的な脱構築は、特に微妙な違いのコンセプトに基づいており、純粋な起源の時間的ポイントは存在しないが、「常に存在していない存在」だけを根本的に主張している。語は、デリダの母国語の “オントロジー”に意図的に近い同音異字として機能します。

Peter Buse and Andrew Scott, discussing Derrida’s notion of hauntology, explain:

デリダの拠点概念について議論しているピーター・ブューズとアンドリュー・スコットは、次のように説明しています。

Ghosts arrive from the past and appear in the present.

幽霊は過去から到来し、現在に現れます。

However, the ghost cannot be properly said to belong to the past. . . . Does then the ‘historical’ person who is identified with the ghost properly belong to the present? Surely not, as the idea of a return from death fractures all traditional conceptions of temporality.

しかし、幽霊は過去のものであるとはいえません。 。 。 。それでは、幽霊と識別された「歴史的」人物は、現在の所属ですか?確かに、死からの復帰のアイデアはすべての伝統的な時性の概念を破壊するので、そうではありません。

The temporality to which the ghost is subject is therefore paradoxical, at once they ‘return’ and make their apparitional debut.

したがって、幽霊の対象となる時間的性格は逆説的であり、すぐに彼らは「帰ってきて」彼らの奇妙なデビューを行う。

Derrida has been pleased to call this dual movement of return and inauguration a ‘hauntology’, a coinage that suggests a spectrally deferred non-origin within grounding metaphysical terms such as history and identity. . . .

デリダは、歴史とアイデンティティーのような形而上学的な用語を根底に置いてスペクトル的に延期された非起源を示唆する造語である、帰還と就任のこの二重の動きを「hauntology」と呼ぶことを喜んでいる。 。 。 。

Such an idea also informs the well-known discussion of the origin of language in Of Grammatology, where . . . any attempt to isolate the origin of language will find its inaugural moment already dependent upon a system of linguistic differences that have been installed prior to the ‘originary’ moment .

このような考え方は、文法学の言語の起源に関するよく知られた議論にもつながっています。 。 。言語の起源を切り離そうとする試みは、その起源の瞬間に先立ってインストールされた言語的差異のシステムにすでに依存している。

Critical applicationsクリティカルなアプリケーション

Derrida’s writing in Spectres is marked by a preoccupation with the “death” of communism after the 1991 fall of the Soviet Union, in particular after theorists such as Francis Fukuyama asserted that capitalism had conclusively triumphed over other political-economic systems and reached the “end of history”

デリダの「スペクターズ」の著作は、1991年のソ連崩壊後、特にフランシス・フクヤマなどの理論家が資本主義が他の政治経済体系に決定的に勝利し、「歴史の終わり」に達したと主張した後、共産主義の「死」を意識している。

Taking inspiration from the pervasive ghost imagery in Marx’s writing, Spectres has been said[by whom?] to concern itself with the question, “if communism was always spectral, what does it mean to say it is now dead?”Contemporary writers such as theorist Mark Fisher specifically used the concept of hauntology to describe a sense in which contemporary culture is haunted by the “lost futures” of modernity which were purportedly cancelled in postmodernity and neoliberalism.Hauntology has been described as a “pining for a future that never arrived;” in contrast to the nostalgia and revivalism which dominate postmodernity, hauntological art and culture is typified by a critical foregrounding of the historical and metaphysical disjunctions of contemporary capitalist culture as well as a “refusal to give up on the desire for the future.

スペルサーは、マルクスの執筆における広範囲の幽霊のイメージからインスピレーションを得て、「もし共産主義がいつものスペクトルであったならば、現在それが死んでいることは、言うために、何を意味しているか?」という質問に心配するように言われました。」理論家マークフィッシャーなどの同時代の作家は、浪費された未来に同時代の文化に通う感覚を説明するために、hauntologyの概念を特に用いた

“ポストモダニティを支配するノスタルジアとリバイバル主義とは対照的に、hauntologyの芸術と文化は、現代の資本主義文化の歴史的・形而上学的差別と、将来の欲望をあきらめることを拒否することを批判している。

“Fisher and others drew attention to the shift into post-Fordist economies in the late 1970s, which Fisher argues has “gradually and systematically deprived artists of the resources necessary to produce the new.”

フィッシャーらは、1970年代後半にポーランドのポスト経済への移行に注目した。フィッシャー氏は、「新しいものを生産するために必要な資源を徐々に組織的に奪い取っている」と主張している。

Hauntology has been used as a critical lens in various forms of media and theory, including music, political theory, architecture, Afrofuturism, and psychoanalysis.

Hauntologyは、音楽、政治理論、建築、アフリカ、アフリカ、精神分析など、さまざまなメディアや理論の重要なレンズとして使われてきました。

Music

Hypnagogic popcultural memory催眠術のポップカルチャーメモリ

Derrida’s concept of hauntology is most prominently applied to a segment of 21st-century musicians exploring ideas related to temporal disjunction, retrofuturism, cultural memory, and the persistence of the past. Common reference points in hauntological music include vintage analog synthesisers and cassette tapes, library music, old science-fiction and pulp horror programmes (including the soundtracks of the BBC Radiophonic Workshop), musique concrète and found sounds, dub and English psychedelia, and 1970s public informational films. A common element is the foregrounding of the recording surface noise, including the crackle and hiss of vinyl and tape, calling attention to the decaying medium itself.

21世紀のミュージシャンの一団には、デリダの時代錯誤、レトロな未来主義、文化的記憶、過去の永続性といったアイデアを探求するデリダの概念が最も際立っています。ちょっとした音楽の一般的なリファレンスポイントには、ヴィンテージアナログシンセサイザーやカセットテープ、図書館の音楽、古いSFやパルプホラープログラム(BBCラジオフォニックワークショップのサウンドトラックを含む)、ムーニークコンクールとサウンドの発見、ダブと英国のサイケデリア、情報フィルム。一般的な要素は、ビニールやテープの鳴き声やヒスを含めて、記録面の騒音の前面にあり、腐敗する媒体そのものに注意を払うことです。

Artists associated with hauntology include members of the UK label Ghost Box (such as Belbury Poly, The Focus Group, and the Advisory Circle), London dubstep producer Burial, electronic musicians such as the Caretaker, William Basinski, Philip Jeck, Aseptic Void, Moon Wiring Club and Mordant Music. Early progenitors of the approach include Boards of Canada and Position Normal.

hauntology学に関連するアーティストには、英国のレーベルGhost Box(Belbury Poly、The Focus Group、Advisory Circleなど)、London dubstep producer Burial、Caretaker、William Basinski、Philip Jeck、Aseptic Void、Moonなどのエレクトロニックミュージシャンワイヤリングクラブとモーダントミュージック。このアプローチの初期の先駆者には、カナダのBoardsとPosition Normalがあります。

According to Mark Fisher, the hauntology movement represents contemporary electronic music’s “confrontation with a cultural impasse: the failure of the future.” Hauntological music is identified with British culture, and was described as an attempt to evoke “a nostalgia for a future that never came to pass, with a vision of a strange, alternate Britain, constituted from the reorder refuse of the postwar period.” Music journalist Simon Reynolds described it as an attempt to construct a “lost utopianism” rooted in visions of a benevolent post-welfare state. A sense of loss and bereavement is central to the phenomenon, according to theologist Johan Reddebo.

Mark Fisherによると、hauntology学の動きは、現代のエレクトロニックミュージックの「文化的窮状との対立:未来の失敗」を表している。音楽は英国の文化と一致しており、「決して忘れられない未来へのノスタルジア戦後の再注文拒否から構成された、奇妙で代替的な英国のビジョンを持つようになった」音楽ジャーナリストのサイモン・レイノルズは、慈悲深い福祉国家のビジョンに根ざした「迷いのユートピア主義」を構築しようとしていると述べた。神学者のヨハン・レデュボ(Johan Reddebo)によれば、この現象の中心的要素は失われていることです。

Hypnagogic pop is described as an American “cousin” to hauntology and is also known to engage with notions of nostalgia and cultural memory. The two styles were likened[by whom?] to “sonic fictions or intentional forgeries, creating half-baked memories of things that never were—approximating the imprecise nature of memory itself.”

催眠術のポップは、アメリカの「いとこ」としての幼稚園と言われており、ノスタルジアと文化的記憶という概念に従事することも知られています。この2つのスタイルは、「誰によって?」と言われていましたが、これは決してそうではないものの半分の焼きたての記憶を作り出し、記憶そのものの不正確な性質に近似しています。

ハートノロジー:あまりにも新しい重要な現れ

翻訳https://www.theguardian.com/books/booksblog/2011/jun/17/hauntology-critical

文学理論の新しい流行は、以前の考え方

Hauntologyはおそらく、批判的な理論の最初の主要な傾向は、オンラインで栄えたことです。

2006年10月に、マーク・フィッシャー(別名kパンク)は、それを「私たちが時代思想の移行に対して持っている最も近しいもの」と表現しました。

ちょうど3年後、アダム・ハーパーは、「2006年ではないことをあまりにも知っています。2ヶ月前、James Bridleは、このコンセプトが「日曜日の補足誌のコラムのタイトルになるのは約6ヶ月です」と予測しました。その後、わずか4ヶ月で行く。私の感情は、幻想がすでに自分自身を悩ませているということです。復活はここから始まります。

密接な相対的な心理学のように、幻想はフランスで始まったが、チャンネルのこの側で和音を打った。

Jacques Derridaはマルクス主義が最初から登場したマルクス(1993年)の「マルクス主義」が、西洋社会が墓地を越えて起こると主張した。

元のフランス語では、 “幻想”は “オントロジー”とほぼ同じように聞こえます。これは、Colin Davisの言葉では、「存在と存在の優先順位は存在しないものとして、死んでも生きていないのでもない。

今日、芸術学は、視覚芸術から哲学、電子音楽、政治、小説、文学批評まで、多くの調査分野を鼓舞しています。

最も基本的なレベルでは、偽のヴィンテージ写真、放置されたスペース、Life on Marsのようなテレビシリーズの人気と結びついています。

マーク・フィッシャー – 私の人生のゴースト・オブ・ザ・ライフ(Zer0 Books)は、特定の「文化的な瞬間」の現れとしての心理学に主に焦点を当てています – 「文化の多くの異なる側面には親密な次元があります、実際にはモーゼと一神教において、フロイトは実際には、社会自体が「死んだ父親の声」という心理的な基礎に基づいていると主張する。

あなたがそれを考えるようになると、すべての形の表現が幻想的です。表現行為は、不完全なインスタンス化であるという理想的な形だけでなく、表現を逃れることによっても忘れ去られています。

例えば、「詩にはない他の虎」を詩に捉えたいというボルゲスの憧れを見てください。

また、文学を「言語の永遠の苦しみ」と言い、いつも懐かしいものに向かって憧れが戻ってくるのを描写した、モーリス・ブランショ

Julian Wolfreyは、「すべての物語は多かれ少なかれ幽霊物語である」というように、「物語を言うには幽霊を呼び出すこと、他の物は何かを返す空間を開くこと」とVictorian Hauntings(2002)多かれ少なかれ、hauntology。

Gabriel Josipoviciによると、最高の小説は、「他の世界の密度の感覚が示唆されているが、言葉を超えている」という感覚を共有している。

読者や批評家にとって、文学の謎は完全には決して解けるものではない文章の中心にある不透明な部分です。

西洋の文学の伝統全体は、ポール・エールラードが自分の作品を通じて「持ちこたえる厳しい欲望」と表現した後世の概念に基づいています。

そして、もちろん、著者の死があります…あなたが見ることができるように、これはかなり長い間続くことができるので、概念がすべてのものを意味するのではないかと思います。

この事件に関する本を書いているSteen Christiansenは、「hauntology学はポストモダニズム、メタフィクション、レトロ未来主義の分野に流入し、明確な区別はない – それは、hauntology学が目指す緊張に逆らう」と説明している。

時代精神を反映したものとして、何よりも、hauntologyは真剣に「外れた」時代の産物です(Hamletはマルクスの幽霊のデリダの重要なポイントの1つです)。

hauntologistsの中では、文化がその勢いを失い、我々はすべて「歴史の終わり」に立ち往生しているという共通の認識があります。

一方で、新しい技術は、より伝統的な時間と場所の見方を変えています。

その間に、新技術は、時間と場所についてのより従来の概念を混乱させています。

例えば、スマートフォンは、幽霊の存在感を育むために、今ここに完全に託すことは決してありません。

インターネット時代(クロック時間をますます置き換えている)は、マルク・アウグスの「他の場所」と肩を並べる一種の「非時間」をもたらします。

おそらくさらに重要なことに、ウェブは「損失の損失そのもの」を意味する「過不足の危機」をもたらしました。何も死ぬことはありません。すべてが「YouTubeに戻るか、反復、トラウマの反復時間(フィッシャー)。

これは、サイモンレイノルズが新しい本で示したように、「レトロマーニア」が近年熱狂的になった理由です。「ポップカルチャーの中毒性を自らの過去に解体する」という方法論的解剖。

Hauntologyは時代の単なる症状ではありません。それは、失われたすべての先物のための郷愁に悩まされています。

「だから、未来の残党を探すことはどういう意味ですか?」

「そうすると、それは将来の残りを捜すために何をそれでは意味するでしょうか。」

Militant Modernismの始まりでオーウェン・ハザーリー(Owen Hatherley)

「私たちは、ユートピアを試して掘削すべきですか?」

それはちょうど発射の価値があるかもしれません。

想田和弘『港町』レビュー

渋谷での出来事だ、横断歩道で信号待ちをしていると、熱い抱擁を交わす高校生カップルがおり、私は眉をひそめていたのだが、あたりのビルにふと目をやると、近くのビルがどうやら高校の施設のようで、女子高生3,4人がカップルを指さし、色めきだっていた、私はそんな光景をみて先日みた『港町』という映画のことを、港町における映画のフレームについて考えてた、私の<視界>には「抱き合うカップル」がおり、ただそれだけだと目障りなだけなのだが、 「色めき立つ女子高生」が< 視界 >に入り込むと、 中学の頃友達のデートをのぞき見ていた時の、みずみずしい感覚が思い起こされたようだった、私の<視界>は映画における<フレーム>と言い換えることができる。<視界・フレーム>の移動、または拡張は、単なる視覚的な変化をもたらすだけでなく、認識にも変化をもたらす、つまりフレーム=認識ということになる。

港町は監督が港町を巡りながら、住民にインタビューを行っていく、そのフレームは監督の視界そのものといってもいい、しかし監督が何を考え、そのフレームを選択しているのかがまるで理解できない、私的なフレームであるにもかかわらず、そのフレームから伝わってくるものが少ない、しかし住民へのインタビューを何度も繰り返しているうちに、このフレームは個人やひとつの出来事に向けられたものではなく、港町という地域全体に向けられているようだ、そのフレームの移動は、出会う住民を気ままに追い、漁船がフレーム内に映り込むと、たちまち漁船でのインタビューへと移行する、今まで監督のフレームは徒歩や車での移動が主であったが、漁港から映り込んだ漁船へ移動するシーンは人の移動を逸脱していた、まるで港町のかもめが港町全体を、ただ観察しているかのようなフレーム移動であった。

MGSV:TPP考 ラーフはなぜ死んだか?

戦場で保護した元少年兵。DD基地内で落下してきた鋼鉄パイプの下敷きとなり死亡した。この事故については説明がされていない。

イーライの意図

イーライはその後、少年たちを指揮し蜂起を起こす。
蜂起の合図は、脱走した少年兵の最後のひとりが戻ってきたとき。
イーライは尋問時に「みんな殺したい奴がいる」といっていた。
イーライは子供たちの報復心を増幅させようとしていた、といえるだろう。

それはなぜか?

報復心はマンティスを通してサヘラントロプスを起動することが可能。
そう考えると「最後のひとりが戻ってきたとき」という合図も理解できる。
報復心の量がピークに達したときに蜂起を起こそうという作戦である。

つまり、ラーフの事故死に話を戻すと、大人達に懐柔された子供たちの報復心を再び呼び起こすための生贄と考えることができる。

園̪子温『東京ヴァンパイアホテル ドラマ版』世界の突破について

園子音の東京ヴァンパイヤホテルを観た。おもしろかった、いやつまらなかった、という人の気持ちもわからなくはない、作品としての完成度はきわめて低いかもしれない。でも個人的にはおもしろかった。なぜ作品としての完成度が極めて低いのにおもしろかったのかというと、まあファンのひいきという点もあるのかもしれない。しかし園子音であっても「ラブ&ピース」は失敗作だと思うので、ひいき以外のなにかはあるのだと思う。

作品としての完成度が極めて低いのにおもしろかったのかというと、これを映画としてまとめるという話をきいていたからであると思う。映画用に撮影したものをドラマ形式にしたら失敗した、という程度のものだと思っている。つまり映画とドラマの違いが明るみになった点で面白かったな、と思った。

つまり作品としての完成度が低いのは映画用の映像を無理やりドラマにしたから、と思っている。それは映画をみてみないとわからない。ここから映画になったらおもしろいんじゃないかな、と思う理由を上げていく。ひとつは世界の構造を描くダイナミクスさがある。園作品の作品のなかには「世界の突破」をテーマとした作品があるのではないかと感じている。「現実の世界⇔外の世界」という構造を描き、そこから突破する人々を描く。リアル鬼ごっこでは「ゲームの登場人物」がゲームの外へ飛び出す構造であったり、アンチポルノではキャラとして演じていた女優から、本来の自分へ戻ることができなくなる女性であったりである。最もの身近な「世界の突破」として家族を描いているように感じる。家族というものは生まれた頃からあって、疑うことが難しいからだ。

東京ヴァンパイヤホテルでも世界が構築され、ある人間が突破を試みるのだが、そのパートはとてもイノセンスで、かなりいいシーンだと感じる。そして突破の先にあるのはそれぞれの日常しかない、ということを示唆していて。個人的には絶望しかないのだが、どう思うかは見て確認してもらいたい。

都留泰作『ムシヌユン』昆虫の感情

本作の完結は、特徴があるように感じた。最近の、といっていいのかわからないが、私が読む漫画の作品構造とは異なると感じた。私は、昨今の漫画は雑誌連載システムに順応した物語構造になっていると感じる。つまりそれはどうゆうことかというと、短期連載にも、長期連載にも対応可能な構造になっているのだ。例えば映画化が決定した『善悪の屑』は復讐屋の物語であるが、まずは作品設定の紹介があり、その後は数話完結の章が並ぶ。そのなかで大きな物語が少しずつ展開する。もっと有名な漫画の例を挙げると『名探偵コナン』などが該当する。このような構造は短期連載となった場合も始めと終わりを構成すればいいだろうし、長期連載にいたっては章を増やしていくことで対応できる。このような構造は連続ドラマにも見られ、増築可能な物語とでも呼ぶことができるだろう。

ムシヌユンは、おそらくであるが、

おそらくではあるが、雑誌サイドにとってリスクは高いだろう。短期にしようにも作品をコンパクトにするのは難しく、長期連載に対応する構造ではない。

だからといって「増築不可能な物語」が物凄い珍しいというわけでもないだろう。ムシヌユンはその中でも完成度が高いといえる。

そもそも「増築不可能な物語」であっても、連載中に人気を獲得する必要はある。ムシヌユンは

 

このようなスタイルは珍しいとはいえ

 

久しぶりにイイ漫画を読んだな、という感触を持った。この感触は90年代の「寄生獣」や「さくらの唄」に似た読後感に似たものだ。完結することで、作品の強度がさらに増す漫画だと思った。

漫画において、物語に確固たる全体像をもっていたとしても、作家の意図したとおりに完成しないことは、往々にしてあるだろう。それはやはり連載しながら、作品を完成させなければいけない雑誌システムが影響する。

漫画雑誌で連載を継続しつつ、物語の主導権を握りつづけるためには、読者から支持を得る必要がある。それがなければ、最悪、自分の意に反した内容の方向転換を余儀なくされ、物語をコントロールできなくなることもある。(昨今においては、人気が高い故、無理な連載継続を強いられ、物語としての強度を失ってしまうことも多い。)

ムシヌユンは作家性と商業性のバランスが絶妙であった。当初はヒロインが4人程度配置される、王道的な美少女漫画として展開、中盤は、移植された巨大な生殖器に翻弄される主人公というギャグ要素を含みつつ、序盤に進むにつれて、地球を侵略しつつある昆虫の正体を探っていくSF的な展開へむかっていく。

そして完結には印象的な言葉がある。

「虫の眼は人間の目と逆転している」という台詞が存在する。このことばが物語の伏線をみごとに回収していると感じる。

地球を破壊する虫は「邪心昆虫」と名付けられた。しかし科学的な調査により、種を保存するために進化を遂げる過程のなかで、結果的に惑星を破壊してしまっているだけである。ましてや「邪」などという感情すらもない、DNAとしてのプログラムとしてのみ動いているだけであったのだ。

この「邪心昆虫」は様々な昆虫と交尾を繰り返し、DNAを混合させて生物的な変化を遂げていく。人間の意識は外の環境に向けられ、自身の体内や種の変化というものには意識が向かわないが、虫は体内、種に意識が向けられているようでさえある。それはまるで「虫の眼は人間の目と逆転している」かのようであるのだ。

主人公は性交を通じてその結論にたどり着いた。唯一人間が種の変化に意識的になれる瞬間は生の交わりによる新たな生命を作り出すことである。邪心昆虫は羽や足などあらゆる不要な部分をとりさり、性器のみに進化し、それらがつねに接続された状態で機能し、タマゴも体内で産み落とされるように進化していた。性交工場のようになっていたのだ。

もちろん人間はそんなように効率的に行うことができない。恋愛という戯れ要素が介入してくる。主人公は意中の女性と性交することができない。

人気が低い場合、内容の方向転換を余儀なくされることもあるだろう

 

 

(漫画作品のなかには、連載中をピークにし、完結が近づくにつれて、盛り上がりが尻つぼみになるものもある。

 

例えば「アイアムアヒーロー」は

 

漫画連載において「物語を完結させる」ことは、容易なことではない、と感じる。連載では、人気を維持しなければいけない。人気が芳しくなければ、編集者から内容について

私の考える「しっかりとした結論」というものは、定型の終わり方ではなく、独自の結論を導き出せたかどうか、である。

青春漫画の傑作「さくらの唄」において、ヒロインが「はじめから自分信じてやってればよかったのよ」というコマはマンガ史に残るラストであっただろう。

ムシヌユンにおいても「虫の眼は人間の目と逆転している」という台詞が存在する。このことばが物語の伏線をみごとに回収していると感じる。

地球を破壊する虫は「邪心昆虫」と名付けられた。しかし科学的な調査により、種を保存するために進化を遂げる過程のなかで、結果的に惑星を破壊してしまっているだけである。ましてや「邪」などという感情すらもない、DNAとしてのプログラムとしてのみ動いているだけであったのだ。

この「邪心昆虫」は様々な昆虫と交尾を繰り返し、DNAを混合させて生物的な変化を遂げていく。人間の意識は外の環境に向けられ、自身の体内や種の変化というものには意識が向かわないが、虫は体内、種に意識が向けられているようでさえある。それはまるで「虫の眼は人間の目と逆転している」かのようであるのだ。

主人公は性交を通じてその結論にたどり着いた。唯一人間が種の変化に意識的になれる瞬間は生の交わりによる新たな生命を作り出すことである。邪心昆虫は羽や足などあらゆる不要な部分をとりさり、性器のみに進化し、それらがつねに接続された状態で機能し、タマゴも体内で産み落とされるように進化していた。性交工場のようになっていたのだ。

もちろん人間はそんなように効率的に行うことができない。恋愛という戯れ要素が介入してくる。主人公は意中の女性と性交することができない。

このようなモチーフはハンターハンターのキメラアントにも登場していた。蟻と王という社会従属性の話である。

 

ムシヌユンを読んだ。2巻発売当時から期待していた作品であり、しっかりと完結してよかったと思った。最近の漫画はヘンに長くしたりするところがあるがグダグダしなくてよかった。

作品的にはとても面白かった。何が面白かったというと「昆虫についてよくしらべているな、と感じた。

たとえば主人公はちんぽに昆虫に奇声されて頭がおかしくなっていくが、彼の身体におこる現象は昆虫をベースにしているのではないか、と思わせる部分がたくさんあった。犯すという感情も昆虫特有の感情なのではないだろうか、と思わせる部分があった。

昆虫学者は「昆虫の気持ちになりたかったが無理だった」と発言している。昆虫学者になりたかった青年が、奇しくも人類で一番昆虫の気持ちがわかる(昆虫になった)人間になってしまったという構図はきれいだなと思った。

青年はなんかいろいろな使命を背負って、同級生とセックスすることになるのだが、あっけないセックスに肩を落としてしまう部分がある。あれははたして昆虫の生理現象なのか、それとも人間特有の生理現象なのか、というところが気になる。昆虫人間になってしまった青年の行動のなかに、なにか人間特有の感情を含ませているような気がしないでもない。

石川宗生『半分世界』出来事×体裁・ディティールの細かさ

半分世界を読みました。

SFはフィリップKディックの『電気羊はなんとかの夢を見るか』以来だったのですが

読んでから、ああ安部公房もSFなのかな、半分人間というのもあったし

というかこのSFというジャンルというのも自分のなかでは納得できていないというか

SFってなんなんだ?というところから始めなければいけない気がしています。

SFと定義すること自体に何の意味があるのかわからないし、

SFというジャンルの棚にしかおかれないことに作者はどう思っているのだろう

と考えてしまったりします。

半分世界というのを考えるときに、まずSFってなんやねん、と考えてしまうのです。

SFとは何か?

ウィキペディアをみると、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称とあります。科学小説、空想科学小説とも訳されているそうです。

しかし私の違和感は解消されていません、もっとわかりやすくいうとSFの批評って何を問題にすればいいのだろう?という疑問なのかもしれません。

ジャンルとして確立しているということは、様々な論争も存在していたはずでしょう。

しかし私はただのひとつも知っているものはありません。

AI三原則は聞いたことがあります。つまりSFについて語るには、過去の判例というか

サンプルをいくつかもっていなければいけないように感じたのです。

ということで半分世界の話に入る前にSFにはどんな論争というか、話があったか確認したいです。

SFで何が語られてきたか?

ロッド・サーリングは「ファンタジーは不可能な事を起こりそうに描いたもの、サイエンス・フィクションは起こりそうも無い事を起こりそうに描いたもの」と述べた。アイザック・アシモフは著作で、単に宇宙船や宇宙人が登場するのがサイエンス・フィクションではなく、価値観の転倒による驚き、すなわちセンス・オブ・ワンダーが必要と述べた。

長山靖生は、SFの成立は「新しくて古い。遡ればどこまでも古く、人類の想像力の始まりの地点」までも遡れるとし、「オデュッセイアや聖書、日本なら古事記や竹取物語をSFとして読む」ことも可能とした上で、このジャンルを厳正に定める者は1920年代(ヒューゴー・ガーンズバックがSF専門誌アメージング・ストーリーズを発行した時期)を成立とするのが常例とした。

とちょっと読んだが、これはかなり長い歴史になるっぽいです。

SFというジャンルはとても専門性のあるジャンルであることがわかりました。

そもそもファンタジーとSFってジャンル分けする必要はあるのかという部分が気になります。

SFってジャンル分けする意味あるの?

本来、ジャンルというのは、その作品を適切に説明するために、または鑑賞者がそういった作品にたどりやすくするために、という部分があると思います。

自分が理解しやすい音楽をレイに考えてみます。

私が学生の頃流行った音楽ジャンルに「青春パンク」というジャンルがあります。

これはパンクっぽい歌い方に「青春」をおりまぜた感じのやつです。

ただパンク好きからしたら、軟弱なジャンルだったと思います。

「パンクロッカーたるもの未来に保険をかけてはならない」とか

かなり過激な名言等が遺されていますので、

ということは:青春パンクの流れ、とパンクの流れを理解していないと、これこそパンクだ!ということはいえないということができます。

それで青春パンクの流れとパンクの流れを知っている人が、知らない人に教えてくれる。

でもこれは違うんじゃないか?とかそうゆうことがいえるのは、内側の人だけということになる。

たとえば青春パンクを知らない学者に、青春パンクを理解する必要はない。

学者がもっている知識を動員して、青春パンクを解釈すればいいと思います。

たとえば学者であれば過去にこのような表現方法をしていた歴史の出来事を持ち出すなりするかと。

そう考えると、SFを知らない私が無理してSFを理解する必要はないかと思います。

自分の知識を動員して外部からSFを解釈すればいいと考えました。

ということで外部ということを意識して考えていこうと思うのですが、

はたして私は何の知識を動員して、この作品を解釈すればいいのだろう、と思いました。

私には特に専門的知識というものは持ち合わせていない、と自分でいってしまいます。

しかしちょっと思ったのがコメディっぽいなというところです。

とくに同名吉田という話は松本人志のつくるコントの雰囲気に非常に似ているな、と感じたのです。

そもそもSFを宇宙や化学的に発達した世界の話だと思い込んでいました。

これらの短編にはそういった化学といったものはない、ような気がします。

吉田が増えたり、家が半分になったり、架空のスポーツの伝記だったり、バス停の話だったり。

どこにも宇宙や化学的の話がありません。

ひとついえることは心理学、化学、などを用いて空想的な出来事をシュミレートしているということです。

今なんの話かわすれてしまいましたので、ちょっと前を読み返します。

ここまでをまとめますと、

作品を批評する際、問題設定のようなものが必要となってくるのですが

私はSFというジャンルの問題やなりたち、知識などをしりません。

なので内部からではなく、外部から、他の知識を動員して作品を問題設定するのが有効であると感じました。

そこで松本人志に似たコメディっぽさがあるな、と思いました。

ここから本編に戻ります。

半分世界と松本人志のコントに似ている。

ここで思ったのが、「あ、ふーん」というリアクションしかとれないということです。

これはあくまで半分世界の話であって、松本人志の批評ではない。

松本人志の話であれば、松本人志のコントはSFか?という問題設定ができると思うのですが、

というか自分にとってお笑いというものは問題設定がかなり簡単であるなと感じます。

なぜなら、「~はなぜ評価されなかったか?」とか「~は何を意図していたか」とか

簡単に問題設定が行えます。まず感覚的なものがあり、それを言語化していくということができます。

ですが半分世界は、感覚的な部分でいうと「よくできた小説だな」「おもしろいな」「ユーモアがあるな」といった感じになってしまうからです。

ではそう思った理由を書けばいいのではないだろうか、と考えましたが、

非常につまらない文章になってしまいそうな気がします。

「ユーモアがあっておもしろい小説である」

なぜなら、吉田同名は吉田という人間が大量増殖する話だが

どうも危機感とか問題とかを感じられない、ただ分裂した人間のみのまわりの社会などを描写しただけである、ふつうだったら、なぜおこったか、とか妻を取り合いになる、とかの盛り上がりのようなものをつくりだして、そこからテーマをあぶりだしていくようなものである。

でもそんな様子もないように思える。ただタンタンと事実を書き記していく、報告書のような印象を受ける。なるほど、報告書のような体裁だからこそ、体裁にリアリティを感じてしまうのではないだろうか。これがどなたかの人称であったら、物語物語しているものとなり、リアリティのようなものはうまれない。吉田が1万人に増えるのにリアリティも糞もないが。この短編のポイントは体裁にあるのではないかとふと思った。

続いて、半分世界、こちらも意味不明な出来事が巻き起こり、これを記録、調査文の体裁に載せている。そして個性的なキーワードが登場し、それを形式ばった説明で説明するのも妙にリアリティのようなものがある。

続いて白黒小史、架空のスポーツを書き記している。これはスポーツの歴史を語るような文章に架空うのスポーツをあてはめている、伊集院光のないないあるあるコーナーのような趣がある。架空の出来事のはずなのに、あああるあると感じてしまうところがおもしろさである。というのもこのスポーツ伝記の文体というか体裁を完璧に模写できているからこそと感じる。

最後にバス停なんとか、こちらも架空のバス停の回りにまきおこる事件を記載する伝記のような趣である。そこから家がたち、歌ができ、これもどこからの村の生い立ちが記載された資料体裁を模写できているからこそ、変なリアリティが生まれているのではないか。

体裁模写というのはリアリティを付与するために有効な手段である。例えば松本人志の「頭頭」というコントがある。おっさんの頭のような食べ物で、付着している毛のような部分を食べる世界での物語で、その設定のなかで祖父の老人ホームに入居させることを告げるのをためらう家族を描いている。設定のなかで家族のドラマが展開されるのだが、それをニュース番組をベースに行ったら、また違った印象の物語になっていただろう。ドキュメンタリーにのせたら、また違った印象になるだろうし(これはフェイクドキュメンタリーか)。「出来事」に独自性があるのではなく、体裁とそのディティールの細かさにこの作者の優れたところなのではないか。

 

演奏動画「でれない VJ remix」の方法論、ラバーズ・ラヴァーの映像性質@木曜トポロジーsight296

演奏動画「ドラの部屋」の方法論

sight296(映像・福居ショウジン&演奏イツロウのバンド)の曲のひとつ「でれない VJ remix」は、既存のVJプレイの枠には当てはまらない方法で演奏される。

福居ショウジンは自身のVJプレイを「演奏動画」と呼んでいる。通常のVJは音楽にあわせて、音の印象や質、メロディに応じて映像やエフェクトを使い分けていく。当然そこにはストーリーや物語のようなものはなく、あくまで音楽を効果的に演出する映像という枠にとどまっている。福居ショウジンの言う「演奏動画」は自身の作品を、即興の演出によって再生していく。フィルム室で即興で編集し流してしまうような即興編集のようなイメージかもしれない。

さらに「でれない VJ remix」はユニークなアイデアが取り入れられている。VJは通常、複数の映像チャンネルをPC内で再生しながら、スイッチングで映像をきりかえてプレイする。福居ショウジンは自作の「でれない」の編集前の素材映像を2つのチャンネルに再生し、リアルタイムでそのふたつをスイッチングし、演奏動画作品にしていく方法をとっている。通常の映像作品は、異なる現場で撮影した映像を編集しひとつの作品に仕上げるが、それをライブで行ってしまう作品だ。

ラバーズ・ラヴァーの映像性質

チャンネル1、チャンネル2の映像スイッチングによって動画を演奏していく、という新しいVJスタイルであるが、重ね合わせる映像の相性も存在するだろう。映画でも同様に、カット割りによっては映像素材が生かされないこともある。

先日行われたラバーズ・ラヴァーとピノキオ√964を映像素材としたVJプレイは映像の相性が抜群によかった。ラバーズ・ラヴァーには無機質なマシンの映像が多様されている。そしてモノクロなので、どの映像エフェクトとも相性がいい。

登場人物の肉体の躍動も、ライブで流される音にまるで連動しているかのようであった。ラバーズ・ラヴァーの映像はカメラの画は停止しているが、登場人物はせわしなく動いているシーンが多い。なので映像効果によって、肉体がけいれんしているかのような映像に変えることができる。

無機質と有機質、静止と躍動、ラバーズ・ラヴァーを使用したVJは、既存のVJプレイの方法論とはまったく別の領域で進化していることを実感するものだった。