石川宗生『半分世界』出来事×体裁・ディティールの細かさ

半分世界を読みました。

SFはフィリップKディックの『電気羊はなんとかの夢を見るか』以来だったのですが

読んでから、ああ安部公房もSFなのかな、半分人間というのもあったし

というかこのSFというジャンルというのも自分のなかでは納得できていないというか

SFってなんなんだ?というところから始めなければいけない気がしています。

SFと定義すること自体に何の意味があるのかわからないし、

SFというジャンルの棚にしかおかれないことに作者はどう思っているのだろう

と考えてしまったりします。

半分世界というのを考えるときに、まずSFってなんやねん、と考えてしまうのです。

SFとは何か?

ウィキペディアをみると、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称とあります。科学小説、空想科学小説とも訳されているそうです。

しかし私の違和感は解消されていません、もっとわかりやすくいうとSFの批評って何を問題にすればいいのだろう?という疑問なのかもしれません。

ジャンルとして確立しているということは、様々な論争も存在していたはずでしょう。

しかし私はただのひとつも知っているものはありません。

AI三原則は聞いたことがあります。つまりSFについて語るには、過去の判例というか

サンプルをいくつかもっていなければいけないように感じたのです。

ということで半分世界の話に入る前にSFにはどんな論争というか、話があったか確認したいです。

SFで何が語られてきたか?

ロッド・サーリングは「ファンタジーは不可能な事を起こりそうに描いたもの、サイエンス・フィクションは起こりそうも無い事を起こりそうに描いたもの」と述べた。アイザック・アシモフは著作で、単に宇宙船や宇宙人が登場するのがサイエンス・フィクションではなく、価値観の転倒による驚き、すなわちセンス・オブ・ワンダーが必要と述べた。

長山靖生は、SFの成立は「新しくて古い。遡ればどこまでも古く、人類の想像力の始まりの地点」までも遡れるとし、「オデュッセイアや聖書、日本なら古事記や竹取物語をSFとして読む」ことも可能とした上で、このジャンルを厳正に定める者は1920年代(ヒューゴー・ガーンズバックがSF専門誌アメージング・ストーリーズを発行した時期)を成立とするのが常例とした。

とちょっと読んだが、これはかなり長い歴史になるっぽいです。

SFというジャンルはとても専門性のあるジャンルであることがわかりました。

そもそもファンタジーとSFってジャンル分けする必要はあるのかという部分が気になります。

SFってジャンル分けする意味あるの?

本来、ジャンルというのは、その作品を適切に説明するために、または鑑賞者がそういった作品にたどりやすくするために、という部分があると思います。

自分が理解しやすい音楽をレイに考えてみます。

私が学生の頃流行った音楽ジャンルに「青春パンク」というジャンルがあります。

これはパンクっぽい歌い方に「青春」をおりまぜた感じのやつです。

ただパンク好きからしたら、軟弱なジャンルだったと思います。

「パンクロッカーたるもの未来に保険をかけてはならない」とか

かなり過激な名言等が遺されていますので、

ということは:青春パンクの流れ、とパンクの流れを理解していないと、これこそパンクだ!ということはいえないということができます。

それで青春パンクの流れとパンクの流れを知っている人が、知らない人に教えてくれる。

でもこれは違うんじゃないか?とかそうゆうことがいえるのは、内側の人だけということになる。

たとえば青春パンクを知らない学者に、青春パンクを理解する必要はない。

学者がもっている知識を動員して、青春パンクを解釈すればいいと思います。

たとえば学者であれば過去にこのような表現方法をしていた歴史の出来事を持ち出すなりするかと。

そう考えると、SFを知らない私が無理してSFを理解する必要はないかと思います。

自分の知識を動員して外部からSFを解釈すればいいと考えました。

ということで外部ということを意識して考えていこうと思うのですが、

はたして私は何の知識を動員して、この作品を解釈すればいいのだろう、と思いました。

私には特に専門的知識というものは持ち合わせていない、と自分でいってしまいます。

しかしちょっと思ったのがコメディっぽいなというところです。

とくに同名吉田という話は松本人志のつくるコントの雰囲気に非常に似ているな、と感じたのです。

そもそもSFを宇宙や化学的に発達した世界の話だと思い込んでいました。

これらの短編にはそういった化学といったものはない、ような気がします。

吉田が増えたり、家が半分になったり、架空のスポーツの伝記だったり、バス停の話だったり。

どこにも宇宙や化学的の話がありません。

ひとついえることは心理学、化学、などを用いて空想的な出来事をシュミレートしているということです。

今なんの話かわすれてしまいましたので、ちょっと前を読み返します。

ここまでをまとめますと、

作品を批評する際、問題設定のようなものが必要となってくるのですが

私はSFというジャンルの問題やなりたち、知識などをしりません。

なので内部からではなく、外部から、他の知識を動員して作品を問題設定するのが有効であると感じました。

そこで松本人志に似たコメディっぽさがあるな、と思いました。

ここから本編に戻ります。

半分世界と松本人志のコントに似ている。

ここで思ったのが、「あ、ふーん」というリアクションしかとれないということです。

これはあくまで半分世界の話であって、松本人志の批評ではない。

松本人志の話であれば、松本人志のコントはSFか?という問題設定ができると思うのですが、

というか自分にとってお笑いというものは問題設定がかなり簡単であるなと感じます。

なぜなら、「~はなぜ評価されなかったか?」とか「~は何を意図していたか」とか

簡単に問題設定が行えます。まず感覚的なものがあり、それを言語化していくということができます。

ですが半分世界は、感覚的な部分でいうと「よくできた小説だな」「おもしろいな」「ユーモアがあるな」といった感じになってしまうからです。

ではそう思った理由を書けばいいのではないだろうか、と考えましたが、

非常につまらない文章になってしまいそうな気がします。

「ユーモアがあっておもしろい小説である」

なぜなら、吉田同名は吉田という人間が大量増殖する話だが

どうも危機感とか問題とかを感じられない、ただ分裂した人間のみのまわりの社会などを描写しただけである、ふつうだったら、なぜおこったか、とか妻を取り合いになる、とかの盛り上がりのようなものをつくりだして、そこからテーマをあぶりだしていくようなものである。

でもそんな様子もないように思える。ただタンタンと事実を書き記していく、報告書のような印象を受ける。なるほど、報告書のような体裁だからこそ、体裁にリアリティを感じてしまうのではないだろうか。これがどなたかの人称であったら、物語物語しているものとなり、リアリティのようなものはうまれない。吉田が1万人に増えるのにリアリティも糞もないが。この短編のポイントは体裁にあるのではないかとふと思った。

続いて、半分世界、こちらも意味不明な出来事が巻き起こり、これを記録、調査文の体裁に載せている。そして個性的なキーワードが登場し、それを形式ばった説明で説明するのも妙にリアリティのようなものがある。

続いて白黒小史、架空のスポーツを書き記している。これはスポーツの歴史を語るような文章に架空うのスポーツをあてはめている、伊集院光のないないあるあるコーナーのような趣がある。架空の出来事のはずなのに、あああるあると感じてしまうところがおもしろさである。というのもこのスポーツ伝記の文体というか体裁を完璧に模写できているからこそと感じる。

最後にバス停なんとか、こちらも架空のバス停の回りにまきおこる事件を記載する伝記のような趣である。そこから家がたち、歌ができ、これもどこからの村の生い立ちが記載された資料体裁を模写できているからこそ、変なリアリティが生まれているのではないか。

体裁模写というのはリアリティを付与するために有効な手段である。例えば松本人志の「頭頭」というコントがある。おっさんの頭のような食べ物で、付着している毛のような部分を食べる世界での物語で、その設定のなかで祖父の老人ホームに入居させることを告げるのをためらう家族を描いている。設定のなかで家族のドラマが展開されるのだが、それをニュース番組をベースに行ったら、また違った印象の物語になっていただろう。ドキュメンタリーにのせたら、また違った印象になるだろうし(これはフェイクドキュメンタリーか)。「出来事」に独自性があるのではなく、体裁とそのディティールの細かさにこの作者の優れたところなのではないか。

 

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