第7回 M12010 ジャルジャル漫才ももう一度まとめる

M12010のジャルジャル漫才は何だったのかまとめていきます。

何を意図したか、何をやろうとしたか

ジャルジャルはコントはキャラクターを演じれるが、漫才は本人であるため。漫才で思っていないことはできないという考えがあった。漫才においての「暗黙の了解」をそのまま利用することができなかった。そのため自分にフィットする形で漫才を行おうというコンセプトがあったという。

M1、漫才の流行によりベタな漫才をみる機会が多くなった、ベタが繰り返されると、次第に演者と観客の間に「了解」が形成されていく。例えば「コンビニの店員やりたい」といわれても「なぜ?」と思うのが普通だが、「これは漫才だから、コンビニの店員がやりたいといわれればミニコントが始まる」という了解が形成されていく。

それをおかしい、と感じても「それが漫才だから」と返答されてしまう、だから違和感を残したままになってしまう。演者であるジャルジャル自身も肌感覚でその違和感に向き合った。

コント漫才は本来「プロポーズ」や「コンビニの店員」など、ベーシックな形が共有されているものが選択される。そうすることでネタフリをやらなくて済むからだ。これはサンキュータツオによりスキーマと呼ばれ解説されている。ジャルジャルは2010年にこのコントの部分を「ベタな漫才」をベースにして、その状況をボケることで漫才を行った。それは結果的にメタ的な漫才となった。

何が起こったか(ネタ篇)

福徳が「コンビニの店員やりたい」とフリをする。よく見るベタな漫才が展開される。

しかし後藤のツッコミが気持ち早い。極端に早いわけではなく、違和感程度の速さである。

3つほどコンビニ店員のボケをしたところで福徳が「ツッコミが速い」と指摘する。

このコンビニ店員のコントがこの後のやりとりのベースとなる。

後藤は「練習したししょうがないやん」と切り返す。

福徳、漫才ははじめてのように演じるもの、と指摘してやり直す。

後藤は福徳のボケにツッコまず、ただ驚くリアクションを見せる。

漫才なんだからツッコミはしてもらわないと困る、と福徳。

すると後藤はのびのびやらせてほしいと懇願し、ツッコミの頭文字だけでツッコみを始める。

それじゃあ観客にわからない、と福徳。しかし後藤はボケも頭文字だけにしようという。

頭文字とアクションだけの漫才が披露される。

何が起こったか

得点は振るわなかった、それどころか一部の同業者から顰蹙を買う結果となってしまった。審査による論点は以下になる。

審査による論点

  • 導入のネタ振り部分が基本的すぎた。(渡辺正行)
  • コントのようであり漫才と呼べるか疑わしい。(松本人志、中田カウス)
論点②コントか?漫才か?

ジャルジャルの漫才において必ず議論される話題である。しかしコント寄りの漫才ならジャルジャルに限らず演じている人は多い。例えばサンドイッチマンの漫才は導入以外はコント内の設定を破ることはない。

松本人志や中田カウスの提示した論点は形式的な「コントか漫才か」の議論ではないと感じる。一般的に漫才は「その場で演じているように見せること」が重要であり、芸であるといわれている。

ジャルジャルは今回の漫才においてツッコミが上手くできない理由を「だって練習したし」とボケた。それ自体は問題ないが、その発言により無意識下に「練習以上のものは生まれない」という考えを植え付けてしまったように感じる。

漫才は「その場で演じているように見せること」であるが、時として会場の空気をつかみ、即興的に立ち回ることで、練習以上のものを生み出す側面があるだろう。

松本人志のいう「漫才と呼ぶべきか」という迷いは、すぐれた構成だが、それ故、即興を予感させるものを感じれなかったと解釈することができないだろうか。

ダウンタウンの漫才の映像を観ると、どれも同じネタであるにもかかわらずひとつとして同じように演じた映像は残っていない。ネタの余白があるか、ないかということは非常に重要に感じる。

コント漫才であっても、即興を予感させる(または即興的である)グルーブ感が生み出されれば、漫才として成立させることはできるといえる。というかアンタッチャブルやサンドイッチマンがやってきた。

同業者による反感

  • 「暗黙の了解」を犯したことへの反感。(アメリカザリガニ、ブラマヨ)
論点③暗黙の了解の破り

今回の漫才で「練習していること」を公表し、暗黙の了解を破ったとして顰蹙を買った。しかし観客からいわせてもらえばそんなことは百も承知である、といえよう。

小説にはメタという技法が存在するし、映画には「第4の壁」が存在する。漫才においてもそのような手法が取り入れられても問題はないだろう。

お笑いは観客、演者ともに「おもしろいか、おもしろくないか」に縛られすぎていると感じる。落語には人情噺もあれば、怪談話もあり、笑いの種類も多種多様であることがわかるだろう。ジャルジャルは「おもしろい以外におもしろい」のだ。

論点にもならないが、中田カウスはそのことで低評価をくだしたわけではなく、漫才の重要な点である「即興的である、または即興を予感させる」という点で評価を下したものと私は考えている。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です