想田和弘『港町』レビュー

渋谷での出来事だ、横断歩道で信号待ちをしていると、熱い抱擁を交わす高校生カップルがおり、私は眉をひそめていたのだが、あたりのビルにふと目をやると、近くのビルがどうやら高校の施設のようで、女子高生3,4人がカップルを指さし、色めきだっていた、私はそんな光景をみて先日みた『港町』という映画のことを、港町における映画のフレームについて考えてた、私の<視界>には「抱き合うカップル」がおり、ただそれだけだと目障りなだけなのだが、 「色めき立つ女子高生」が< 視界 >に入り込むと、 中学の頃友達のデートをのぞき見ていた時の、みずみずしい感覚が思い起こされたようだった、私の<視界>は映画における<フレーム>と言い換えることができる。<視界・フレーム>の移動、または拡張は、単なる視覚的な変化をもたらすだけでなく、認識にも変化をもたらす、つまりフレーム=認識ということになる。

港町は監督が港町を巡りながら、住民にインタビューを行っていく、そのフレームは監督の視界そのものといってもいい、しかし監督が何を考え、そのフレームを選択しているのかがまるで理解できない、私的なフレームであるにもかかわらず、そのフレームから伝わってくるものが少ない、しかし住民へのインタビューを何度も繰り返しているうちに、このフレームは個人やひとつの出来事に向けられたものではなく、港町という地域全体に向けられているようだ、そのフレームの移動は、出会う住民を気ままに追い、漁船がフレーム内に映り込むと、たちまち漁船でのインタビューへと移行する、今まで監督のフレームは徒歩や車での移動が主であったが、漁港から映り込んだ漁船へ移動するシーンは人の移動を逸脱していた、まるで港町のかもめが港町全体を、ただ観察しているかのようなフレーム移動であった。

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