日記について調べながら新しい「概念」を100個日常に導入する試論

というテーマを立てて書いていこうと思います。

日記とは何か?なぜ定義することを試みるのか?

https://cyblog.jp/27011

言葉は心象を固定し、概念を同定します。心(頭)に浮かぶものを、記号と対応させる

最初は、人を乗せて運ぶ大きな乗り物すべてが「新幹線」と定義され、その後現実的経験とフィードバックの蓄積により、「電車」「飛行機」「トラック」という別の言葉が定義されていく中で、「新幹線」の意味が精緻化(再定義)されていきます。

言葉を定義することは、世界を知ることとイコールです。つまり、定義を増やすこと(≒語彙が増えること)と並行して、その人間の世界の知覚は広がっていく

《新しい言葉》には、これまで存在しなかった新語だけではなく、新しい意味(文脈)をまとった既存の言葉も含まれます。どちらであっても、対応する言葉を持たない心象を表現するための記号が生まれ出たならば、それは《新しい言葉》と言えます。

その《新しい言葉》は、それ自身が一つの成果物でありながら、別の新しい概念を引っ張り出す触媒ともなりえます。その言葉によって、他のものを包括する説明ができたり、あるいはそれに触れた他者に、思考の刺激を与えたりするのです。そうしたダイナミズムが知的生産活動の面白さでもある

新しい言葉を定義するためには、参与し、観察しなければいけません。そこで、今までになかった心象と巡り会ったり、すでにある言葉に違和感を覚えるからこそ、新しい言葉への欲求が高まるのです。それ以外は言葉遊びに過ぎません。

再定義について(これは芸術ではない)

https://note.mu/whole9/n/n49cbb4ec5fb7

というのもいま関わっている企画の小説「マチネの終わりに」を読んでいて「芸術の価値の定義が変わってきている」ってところが出てくるんですよ。もう少し掻い摘んでいうと、「芸術の価値というのはカントの定義以降〈美しい=beautiful〉か〈崇高=sublime〉だったものが、20世紀後半、特に現代ネット社会以降では〈カッコイイ=cool〉〈スゴイ=awesome〉になってきた」という事なんですね。

いま現在、自分を取り巻く環境ではその通りだし、それに輪をかけて〈ヤバい〉ってワードにまで言葉が変わってきています。

とある初対面の芸術家から「君がやってることは芸術じゃない」といった旨を言われたんですよ。お酒の席で紹介してもらった東京藝大出身の方だったんですが、その方とはどの作家が好きか、みたいな話をしていました。話が進んでその方が僕の好きな作家を否定しだしたので「(貴方ほど芸術ってことを考えてないので)僕がやってることは大きな絵を描く看板屋だ」と言ったところ、やはり先の言葉を頂戴したというわけです。

音楽に例えればわかりやすいと思うんですが、雅楽やってる人がJPOP(もっといえばHIPHOP)やってる人に「君がやってることは音楽じゃない」って言ってるようなもんだと思うんですよね。「伝統的に継承される新陳代謝自体が重厚で高尚なもの」と「今を捉えた軽薄で回転の早いビビッドなもの」とじゃ大事にしている物が1から10まで違うと思うんです。だからどちらかを否定するつもりじゃ無くて、単純にその舞台を仕切っているルールが違うんだから、あとは各々の好みだろって考えてしまいます。

定義について2:これは批評ではない

http://nagase-m.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3203.html

「それは批評じゃなくて単なる感想だよね」
「批評じゃなくて批判じゃん。というか悪口じゃん」

歌会とかTwitterのつぶやきでよく聞く台詞ですよね。
聞き覚えのある人も多いはず。

でもこれって一体どういう意味なんでしょう?

ここまでの説明で感想と批評の違いはいろいろわかりました。残る疑問は「で、それなんの役にたつの?」ってことですよね。

ということでここでは感想と批評の意義/提供価値について考えてみます!

ところで「提供価値」というくらいなので「提供するもの(何を)」だけでなく、「提供する相手(誰に)」も必要ですよね。

そこで、「(感想/批評の)読者」「作者」「評者自身」という3つの立場でそれぞれどのような価値を提供することができるのか

まとめると、精緻化(定義)することで、新しい概念に触れることができ、知覚が広がっていく、ディグる、ググるようなもの、至るジャンルで再定義化が行われている、定義が定着化すると、そこから逸脱するものが登場し、さらなる再定義が繰り返される、

日記には日付がある、それは何を知らせるものか?

「日付のある」○○

https://www.otsuka-shokai.co.jp/erpnavi/topics/column/digital-evidence/e-kakuteijikoku.html

「確定日付」と「タイムスタンプ」について整理します。

確定日付とタイムスタンプは、どちらも、情報の存在証明をするという目的は同じです。

何も保全していない記録は、後日簡単に偽造できてしまうし、
複数間でやりとりする契約についても、共謀・通謀することで、偽の資料をが作成できてしまいます。
このために、 否認されてしまうというリスクへの対抗策が、確定日付であり、タイムスタンプなのです。
作成日時や前後関係について争いになったときに証明するために第三者が介在して作成日時を付与する制度ですね。

確定日付は、民法施行法で規定されています。
民法施行法は、今からちょうど10回前の戌年、120年前の1898年(明治31年)に公布されています。
もちろん、タイムスタンプなんてありません。

タイムスタンプは、日本語であえて 命名すると「e-確定時刻」でしょうか。
明治の時代には実現できなかった、正確で確実な時刻を付与する制度ですね。

明治の時代では、存在証明のためには、信頼のおける第三者(ヒト)に依存するしかなく

日付のある映画論

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E4%BB%98%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%AB%96%E2%80%95%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%94%B7%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC-1979%E5%B9%B4-%E6%9D%BE%E7%94%B0-%E6%94%BF%E7%94%B7/dp/B000J87CPO

インスタにはなぜ年月の日付がないのか?

SNSなどでよくある日付を何分前、何時間前などで表示する

https://ameblo.jp/mycal-toyoki/entry-11298273771.html

インターネットのアーカイブ性故の時制誤認
これはどういうものか。簡単に言ってしまいますと、過去に書かれた記事を何らかの手段によって現在目立たせ、それを最近のもののように錯覚させることで生まれる誤解から生ずるデマです。

ネットで記事を見る場合、それが昨日今日、もしくはつい最近書かれたものと思いがちです。特にニュースの場合その傾向が強いように思われます。これは新聞やテレビのニュースのような速報メディアを見るのと同じ感覚を受け継いでいるからというのもあるでしょう。
しかし、ネットはご存じの通り記事においてアーカイブ性が強くあります。故に過去のニュースでも最新のニュースと同じように閲覧することが可能です。その過去のニュースを見ることが出来るという性質はネットの大きな利点でもあるのですが、反面、見る側の意識によってはデメリット、すなわち事実の誤認が生じてしまうこともあります。それの最たるものが時制の誤認。

http://namihira.hatenablog.com/entry/2014/04/19/235757

現時点でのまとめ、「日付のある○○」とはつまり、本来日付のないものに日付を付与したものである、日付をつけることで本来とは異なる意味が生まれる、

インターネットでは強いアーカイブ制ゆえ時制誤認が生まれやすい、フィジカルで生まれる劣化がないことで古い情報か、新しい情報かを判断することも難しい

インターネットは非同期型から限りなく同期型へ移行している、日付ではなく、何分前、何日前という記載へ移行している、強くアーカイブされる、

日記を盗み見ること、なぜ見られたくないものを記録するのか、プライバシーとは、

他人のLINEを勝手に見ることは犯罪になりますか。

「刑法には信書開封罪があるが、LINEは紙でないため該当しない。また不正アクセス禁止法はコンピューター・ネットワークにアクセスして情報を盗む行為を対象としている。他人のIDとパスワードでネットワークにアクセスする場合は該当するが、スマホの画面を見るだけでは対象にならない」

――LINEにもアプリにパスワードを設定する機能があります。

「他人のID・パスワードでネットワークにアクセスする行為は、不正アクセス禁止法で3年以下の懲役、100万円以下の罰金と規定されている。夫婦が浮気を調べるために相手のLINEにアクセスした場合なども不正アクセス行為に該当する」https://www.nikkei.com/article/DGXKZO97880240R00C16A3H56A00/

現代でも盗読行為は存在する、

昔は家族が日記を出版することなどがあった、

http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/a_privacy.htm

情報化社会がどういった時代なのか、という点については、 いろいろな考え方がありますが、ここでは、 おおよそ次のように整理しておきましょう。

情報というのはタダで手に入る物ではありません。 仮にお金を払わなくても良いとしても、ある情報を手に入れるためには、 知っている人を探して尋ねたり、図書館で本を探して読んだりなど、 時間と手間がかかるわけです。この時間や手間も費用だと考えますと、 情報を受け取るのにはそれなりの費用がつねにかかっているわけです。 逆に情報を誰かに伝えるのもタダではありません。 自分の考えを誰かに伝えるためには、長い時間をかけて言葉で伝えたり、 文章にまとめたりしなければなりません。 こうした時間と手間という費用を乗り越えて情報を発信することは、 普通の人にはなかなか大変な作業です。

この視点から考えますと、情報化社会とは、 飛躍的に発達した情報機器のおかげで私たちが情報を手に入れたり、 逆に発信したりする費用(以下「情報コスト」と呼びます) が劇的に低下した社会だということができるでしょう。それまで、 ある事柄に関する情報を収集し、 誰にでも良く分かるように整理して発信するような作業にはとても費用がかかってい ましたから、出版社、新聞社、 放送局といったメディア企業程度の資本力や組織力が必要でした。もちろん、 自分一人でそうした作業をする人たちもいましたが、 それには情報コストを乗り越えるだけの「何としても調べたい」 「何としても伝えたい」という情熱が必要だったわけです。

このように情報の収集や発信にたくさんの費用が必要でしたから、 収集される情報や発信される情報は、その費用に見合った内容のものに限られました。 政治家や大きな会社の社長の私生活、みんなの注目を集めている芸能人の私生活は、 費用を掛けて集めたとしてもそれに見合ったなんらかの利益を期待することができま した。逆に、あなたの家の夕ご飯が「さんま」だったか、「ぶり」 だったかを調べたとしても何の利益にもならないでしょう。ですから、 メディアの標的になる人達はごくわずかであり、 メディアから個人生活を防衛するプライバシーの権利もまた、 そうした人達にだけ関係があるものだったのです。

ところが、(1) それまで警察や国防に関係する人たちだけが使っていた盗聴機や隠しカメラのような 道具が雑誌で通信販売され、(2) 個人でコントロールできる情報探索・ 発信のメディアとしてインターネットが現れ、(3) 発達したデータベースにより個人的なささいな事柄でも、そう、 たとえばあなたの家の夕ご飯が「さんま」か「ぶり」 かといったような事柄でもマーケティングのための重要情報とされるようになります と、 普通の個人に関する事柄でも調査して利用することが経済的に引き合うようになって きてしまったわけです。

さらに悪いことに、 冒頭で述べましたように人間には他人の行動や生活が気になって仕方がないという本 性があります。これは社会的動物として当たり前の本性です。それゆえ、 そうした情報機器をつかって他人の情報を調べて発信するというのは、本質的に 「楽しい」ことらしいのです。情報コストが安くなれば、 それまでよりも興味をひかなかった人や事柄についても調べてみよう、 という気になりますね。

情報機器によって情報収集・発信の費用が低下したことは、 悪いことばかりではありません。先ほど述べたように、それまで情報の収集・ 発信にはかなりの費用が必要でしたからある程度の資本力あるいは特別な情熱(利害) をもった人達だけが社会において情報発信の能力を持っていたわけです。 こうした現象は20世紀において顕著であり、マス・メディアは「第四の権力」 とよばれるまでに力をもつようになりました。それらメディアは、 情報をコントロールする力を独占し、 私たちをいつでも情報の力で葬ることができました。たとえば嘘の報道である「虚報」 や誤った報道である「誤報」 によって社会的な生命を絶たれた被害者はたくさんいます。また、メディアは、 自分達に都合の良い報道や宣伝を行うことで私たちを欺くことさえできるのです。

そうした権力をもったマス・メディアの「良心」に期待してばかりもいられません。 インターネットに代表されるような個人がコントロールすることができるメディアは、 私たちを支配する権力そのものや、巨大な権力となったマス・ メディアに抵抗する能力を私たちに与えてくれたのです。情報化社会は、 これまであまりに偏って存在していた「情報をコントロールする力」 を民主化したともいえるわけで、 情報力の均衡という点では望ましい面を持っています。このことはまた、 私たちの生活へのメディアからの侵害に対して、反論・ 抵抗する能力を私たちが獲得したことを意味しているわけです。

さて、もともと「プライバシーの権利」 がメディアの情報力に対抗するための権利として現れてきたと述べました。 また現代の情報化社会が「情報をコントロールする力」 を私たちに与えてくれたことも分かりました。こうしてみますと 「プライバシーの権利」が盾とすれば「情報をコントロールする力」 は矛の関係に立っていることが分かると思います。そして、 現代のプライバシーの権利は、こうした情報化時代を背景に 「一人にしておいてもらう権利」という消極的な面だけでなく、 「自己の情報をコントロールする権利」 として積極的な面をもつようになってきました [6]。ですから、 プライバシーと情報化社会を対立するものとして把握することは、 後ろ向きな考え方だといえるでしょう。

現在までのまとめ、盗読行為は現代にも存在する、

プライバシーの形は変わりつつある、プライバシーは一部の人間だけのものであったが、情報

日記の並び読みについて

 

 

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