3回目 ジャルジャル「ピンポンパンゲーム」の革新性について

M1-2017の決勝で披露されたジャルジャルの漫才。今まで観たことのないネタは多くの人に印象を残しました。しかし審査員の点数は振るわずファイナリストに残らずに6位という結果になってしまいました。あのネタはなにが革新的で、何が評価されなかったのかを探っていきたいと思います。

なにが革新的だったか

まず一番の特徴はみたことのない構成となっています。ボケとツッコミという役割を使った言葉遊びが展開されます。こうボケたときはこうツッコめというルールをいくつか設定していき、言葉遊びをしながらルールの伏線を回収していく流れになります。

言葉遊びは「ボケとツッコミの言い合い」というかろうじて漫才と定義できる状況を残しつつ、展開していきます。そのふたりの様子自体が大きなボケとなっています。(ピーン・背筋のびてるやん・背筋伸びてるやん・ピーンというピーンの応酬部分)その軽妙なリズムは意味をあまり理解していなくてもコミカルで笑えるものとなっていました。

そして伏線が回収されたときは「笑い」という枠を飛び越えた「カタルシス」を生み出しました。こういった感覚は漫才では珍しいため、新しいものとして映りました。その部分が革新的だったといえます。

本来ダブルボケと呼ばれるものは笑い飯のように役割交換というものが可視化(替われなどの掛け声で)されていました。しかしジャルジャルは別のネタでボケとツッコミの交換自体を限りなく自然なものとすることに成功しています。(それについては別のところで触れたいと思います)そして今回のネタでは漫才自体の状況がボケという構造にすることに成功したといえるでしょう。

まとめますと、ピンポンパンゲームの革新的なところは、漫才自体を大きなボケに変化させた点と、大きなカタルシスを生み出した点で新しい漫才として映ったと考えることができます。

何が評価されなかったか

いくつかの革新的な部分を生み出しながらジャルジャルは敗退しました。ではどういった点が評価されなかったのかみていきたいと思います。

展開について

中川家礼二と博多華丸大吉の大吉からは、もうひとつ展開がほしいという評価コメントを残しています。確かにネタのカタルシスは中盤にやってきて、それ以降の展開は同じものでした。大吉はラジオにて「会話のなかのピーンという単語に勝手に反応してしまう部分を膨らませるのかなと思っていた」と言及しています。確かにそうすればさらに展開がおとずれもっとよくなるように感じます。しかし展開不足というわけではないでしょう。ふたりにとって別の部分で決めかねる部分があり、結果的に展開への言及になってしまったのではないかと感じます。

展開への欲望はボケとツッコミという漫才の型への渇望があるのではないかと感じています。該当のネタはボケとツッコミという上下関係がなくなり、漫才自体が大きなボケになっていることは説明しました。そのことによって漫才というよりは、ふたりの会話劇のコントという印象が強くなっていきます。漫才はボケとツッコミという関係のため、台本通りということはわかっていても、即興的な会話劇の可能性を残しています。それに反して完璧な会話劇は、システマチックになってしまい即興的なものへのイメージが生まれません。「会話のなかのピーンという単語に勝手に反応してしまう」は唯一の即興性を連想させる展開でした。審査員のふたりはこの点を指摘したのではないかと考えています。

「感心」について

松本人志は開催後に出演した番組で「ネタで客を感心させてしまったから優勝できなかった」と言及しています。また大吉もラジオにて「よく覚えたな、という感心がまずきてしまった。」と言っていました。これらのコメントから「カタルシス」の笑いの性質というものを考えることができます。

桂枝雀の緊張の緩和理論において「笑い」の性質を3つに分類しています。まず緊張の大緩和と呼ばれる状態で、緊張のない悟りの状態なので常に笑いが発生している状態です。次に喜びの笑いです。優勝した、や勝利したなどの持続性のある笑いです。最後に瞬間的な笑いです。本来お笑いは瞬間的な笑いの部分なのですが、ジャルジャルのネタのカタルシスは「喜びの笑い」という側面が強かったと考えると、観客の盛り上がりが必ずしも評価に直結していないことにも理解することができます。

まとめますと、ボケとツッコミが消滅した二人会話はシステマチックにならざるをえず、即興性を連想させる漫才特有の展開がないことに審査員に抵抗感を与えてしまった。またカタルシスによって生み出された笑いの性質が「喜びの笑い」という側面が強かった。ということがいえるでしょう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です