人に説明しよう、マルチシグとは?

coincheckのハック事件、600億円ぐらい不正出金、出川死亡

マルチシグとは?

ビットコインの秘密鍵が一つではなく、複数に分割されており、ビットコインへのアクセスは一定数以上の鍵を合わせる必要があるようなイメージ。

通常(マルチシグでないもの)、秘密鍵は一つの端末やパスワードに依存しています。つまりパソコンやスマホがウィルスにかかったり、パスワードをハックされたりすると自分のビットコインを失うリスクがある。攻撃の対象が一つ。

マルチシグアドレスの場合、鍵(署名)が複数あり(マルチ=複数、シグネチャ=署名)それを分散して管理することで仮に一つの端末がハックされたり、パスワードが一つ流出したりしても、ビットコインの盗難を防ぐことができる。ハッカーは複数の端末やサーバーなどを同時に攻撃する必要があり、鍵が複数必要なことでセキュリティーが何倍、何十倍も上がる。

うっかりパスワード紛失への保険になったり、マウントゴックス倒産(現在捜査継続中ですが)のような、ビットコインスペースで頻発する詐欺もマルチシグを使うことで防げる。

マルチシグの例文

  • 家の玄関がマルチシグで空かない。
  • 心をなかなか開かない人に向けて「心のマルチシグ」

「なるようになる」から「なるようにしかならない」へ

「なるようになる」という人を見かけるが、私は「なるようになる」と考えていたら「なるようにしかならない」と考えるようになった。

園子温の監督作品を観ていると「あらかじめ決められた運命」というテーマがあることがわかる。すべての運命は決まっていて、そうであるのなら、あらかじめ決められた運命から解放されるよう最善をつくそう、というメッセージがある、と読み取っているのは私だけかもしれないが。

「あらかじめ決められた運命」の思想を人に話すと、そんなことは絶対にないと反論されることがある。勿論私も「あらかじめ決められた運命」などあるはずがないと思っている。世の中何が起こるかわからない。

しかし例えば18万円の収入の会社に勤めている人は、自分で環境を変えるなり、給与を上げるためい努力するなどしないと、その収入は変わらない。世の中何が起こるかわからない上に、自分の人生が変わる確率も低い。そうゆう人は「世の中何が起こるかわからない」にかけるため宝くじなどを購入するだろう。

「世の中何が起こるかわからない」にも種類があることがわかる。例えばあそこの木にとまっている鳥はどこに跳ぶかわからない。

自分の人生は「あらかじめ決められた運命」のなかにある、と考えるといろいろな行動を起こすモチベーションになる。例えば私は、ふつうに生きれば、田舎に帰って、賃金があまり高いとはいえないどこかの会社に勤めるだろう。そう考えてしまうのは今までのホメオスタシスが影響しているのかもしれない。

「何が起こるかわからない」と考えているからこそ「あらかじめ決められた運命」を変えようと行動を起こすことができるのだと思う。

苔に関する話題2回目「」

スナゴケは土壌がいらない

 

スナゴケ育成

①容器(タッパ的な)の底にバーミキュライト(木のこっぱ的な)を敷き詰め保湿用

②その上に不織布を敷き

③スナゴケをバラバラにし、ハサミで細かく切ったものをばら撒き

④水を撒く

フタをして待つ。

スナゴケの撒きゴケ

風が強い日はそこそこ影響を受け、雨も強くなると侵食してくる

容器の底に穴は開けていない。フタは完全に閉めると密閉状態に

発芽するためには日光が当たり過ぎない環境が良い

やんわり日差しを避ける

不織布の上にばら撒く手法

園芸用のハイゴケシートを売っている業者がいる

育苗箱(プランター的なもの。穴も開いている)の底には新聞を敷い

保湿用の土は籾殻を使っている、湿度を維持できればなんでもいい

 

 

 

乾燥にも、日光にも強い

屋上の緑化に使われるスナゴケシート?スナゴケマットは、本当に土がない

スナゴケは日がよく当たる駐車場にどうどうと群生をつくっており、雨上がりに見たときは小さな星がたくさん集まったような美しく

コロニーを形成するととても蜜になるため、苔園芸においては苔玉などにも利用

スナゴケの苔玉を置くのであればレース越しに日が入るような明るい窓際

貼りゴケでも蒔きゴケでも増やしやす

乾燥にとても強い

ほとんど手間をかけずにモスグリーンの庭に

広い範囲を苔で覆いたい場合は蒔きゴケがおすすめ

適度な水はけと保水性が土壌に確保できていれば、基本的に降雨で十分

蒔きゴケした直後は夕方陽が暮れる時間あたりに毎日水をあげれば、春や秋なら2週間もすれば新芽

ただ一方で、日中日が当たる時間帯は乾燥に耐えるため縮こまって枯れたようになる

でもそんな時に決して水をあげてはいけない。蒸れを起こしてしまいます。

日が当たらなくなってから水をあげるか、雨が降るのを待ち

枯れたように見えているだけでそう簡単には枯れません

過保護に水やりするのは逆効果

スナゴケは3~5cmくらいまで生長したらほとんどそれ以上伸びない

仮根がほとんど発達せず土壌への接着力が弱い苔

乾燥している時などは、ちょっと撫でただけで剥がれてしまう

乾燥している時は仮死状態に入り、一時的に生命活動を停止

それがある湿度に達すると活動を開始するのです。水を与えすぎると休めなくなります。

  1. 日当たりの良い場所で育てる(直射日光のあたる場所)。
  2. ど直射日光があたらない場所は、間接光で明るく、風通しの良い場所で。
  3. 雨水や夜露(朝露)など自然の恵みがあたる場所で育てる。
  4. 水はけを良くしていますか。水たまりが出来ないように。
  5. 必要以上に水をあげない。
  6. 特に灌水をしなくても自然の恵みだけで育つ。
  7. 乾燥状態と湿潤状態では表情が異なります。乾燥状態ではスナゴケは休眠し、活動を停止しているだけ。
  8. 乾燥状態が続くとかわいそうだからと言った理由で水をあげがちですが、スナゴケにとっては迷惑です。
  9. 枯れた色をしていても死んでいませんので捨てないでください。適切な処置をしてやれば蘇ります。
  10. 一般の花などと異なり、枯れた色=死ではありません。
  11. 土壌は無機質な素材を使っていますか(おすすめは川砂、砂利、鹿沼土、珪藻岩などをブレンド)。
  12. 有機成分が含まれた土壌ではうまく育ちません。
  13. 肥料は不要です。土壌は中性か弱酸性にしてください。
  14. 育てる場所を頻繁に変えないでください。

バーミキュライトとは?

 

苔に関する話題1回目「モス山形」について

山形県モス山形

地面ビジネス

年商はいいときで2億円

社員わずか10名ほど

黒い遮光ネット張っている

工場の屋根やビルの壁面を手軽に緑化できる、「苔ボード」や「苔マット」を製作販売

1平米で6500円。加工すると13000円。

芝生だと毎日の水やりが欠かせないけれど、苔はその必要がない

「すなごけ」なら、空気中の水分だけでOK

コケは、根がないので土いらずで軽い!発泡スチロールのマットに、貼り付けるだけ

軽いから、色んな建物の上に載せることができる

病気にかかった時の対処法とか、こういう場所はこれくらいの遮光をしたほうがいいとか、色んなノウハウがある

山奥で育てた苔は、いったん地面からはがして、ふもとの工場へ

工場で地元のおばさまたちが、発泡スチロールのパネルにぬいつける

http://www.tbs.co.jp/gacchiri/archives/20160904/index-j.html

コケに必要な水分は朝露と夜露で補えるため、灌水(かんすい)などの作業が不要で、栽培には中山間地の気候が最適

コケは種子植物とは異なり、成長に5年ほどの年月がかかることに加え、広大な敷地が必要

大量生産するのは難しいとされ、緑化用コケを栽培している人は国内にはいなかった。

情報もほとんど無い中でのスタートだったため、水を多く与えすぎて枯れさせてしまうなど、栽培技術を確立させるのに苦労

98年に販売を開始

研究・改良を重ね、ポリプロピレン製の栽培マットに種苗を植えつける方法

生育期間を短縮させる手法を考案

開発から10年以上をかけ、コケの安定生産を可能に

栽培マットで成長させたコケは、改良した畳用の大型ミシンを使い、別の素材に1メートル幅で縫い付けて固定

仮根がほとんど発達せず土壌への接着力が弱い苔

乾燥している時などは、ちょっと撫でただけで剥がれてしまう

屋根用で発泡スチロールにコケを縫い付け一体化させた「コケボード」

ビルの屋上や壁面用で不織布に縫製された「コケマット」

乾燥しても枯れないコケは雨水だけで生育可能なため、維持管理の手間が少なく安価

栽培に土を必要としないことから軽量で作業効率が良い

http://www.yynosai.or.jp/kyosai/post-375.html

気になったところ

  • 「すなごけ」なら、空気中の水分だけでOK
  • 工場で地元のおばさまたちが、発泡スチロールのパネルにぬいつける
  • ポリプロピレン製の栽培マットに種苗を植えつける方法
  • 別の素材に1メートル幅で縫い付けて固定

5回目 M1-2010ジャルジャル漫才から考える即興性

私はリアルタイムで視聴していなかったのですが、最近たまたま2010年のジャルジャルの漫才をみて、とても驚いたので解説していきたいと思います。

 M1-2010ジャルジャル漫才

この大会でジャルジャルの漫才は賛否を巻き起こします。福徳がボケて、後藤がツッコむのですが、後藤のツッコミが気持ち早いという流れが3回繰り返されます。その後福徳にツッコミがはやいことを指摘されて、後藤が「何回も練習してるし」と発現します。それからさまざまなツッコミをためしていきます。この「何回も練習してる」という表現が数人の漫才師から反感を買ったとネットにありました。

次はリアルな反応、どんなボケもリアルなリアクションでかえしていきます。しかしこれも失敗におわり、最後はツッコミの頭文字だけで通じるのではないか、という流れになり、二人が頭文字を言い合うという流れになり終わります。

この漫才の何が革新的で、何が低評価につながったのかまとめていきます。

革新的なところ「優れた構成」

2000年のM1で当時名前が知られていない新人だった麒麟は、前半の漫才すべてをフリとして使い、後半にフリを回収する大胆な構成の漫才を披露し高得点を獲得しました。私は2005年ごろにこの漫才をみて衝撃を受けました。またのちのち落語の蒟蒻問答などを知り、お笑いというのは奥深いのだなと感心したことを覚えています。

昨今ではこのような前後半にわけた構成の漫才は珍しくなくなりました。ジャルジャルの2010年の漫才も漫才自体をフリとし、様々なツッコミをためしていくものとなっています。

サンキュータツオさんのブログにはこのような漫才をメタ化するネタというのは1回戦あたりに多いそうで、私はこの手のネタの失敗のパターンをみたことないのでなんともいえませんが、やはり構成力は非常にすぐれていると思います。私は漫才において構成というのはリズムを生み出す点において非常に重要なものだと考えています。歌にもAメロ、Bメロ、サビとあるように、漫才にも構成というものは笑いに大きくかかわっていると感じます。

最初からフルスロットルの漫才であると、このあとどうなるのだろう、このままこれがずっと続くのだろうか、など不安に陥ります。しかし優れた構成の漫才は今はAメロっぽい、ああ盛り上がってきたというような観客をリードするように機能していると思います。

2010のジャルジャルの漫才は4つのブロックで最適に構成されているといえるでしょう。

  • 1ブロック ツッコミが微妙に早い漫才(不安をあおる)
  • 2ブロック ツッコミを限りなくリアルにする漫才
  • 3ブロック ツッコミを頭文字だけにする漫才
  • 4ブロック 頭文字だけ漫才

ただこのフリ部分があまりに凡庸な漫才と指摘を受けてしまいました。個人的には不安をあおることで次の笑いのフリとなっている気がしたのですが、あまりにも不安をあおりすぎてしまったのかもしれません。ただ麒麟の漫才の不安のあおり方は半端なかったですが、あれは1回目だから新しさがあったと考えるべきでしょうか。

低評価につながったこと

このジャルジャルの漫才についてはいろいろなところで記事がまとめられていたので非常にまとめやすかったです。

まず審査員の渡辺正行は「ラストのパターンに行くための導入として、必要だったのだろうけど、基本的すぎる」と言っています。私は大きな不安として機能していたと感じたのですが、あれぐらいのスキルのツッコミは現実にあるし、フリとしては弱くなってしまったということが言えるかもしれません。

松本人志のコメントから考える「即興性」

松本人志は「これはねぇ、、、うーん、漫才と取っていいのかどうか、っていうのがちょっとありましたね。」とコメントを残しています。確かに「漫才の練習」というコントのようでもあるため、漫才というフォーマットを最大限に生かせていなかったということがいえるかもしれません。

サンキュータツオさんはこの漫才においては「漫才か、コントかの議論は意味をなさない」といっており、私も同意見でありました。サンドウィッチマンなんて完全にコントで優勝してますし。やはり結局ウケが弱かったとしかいいようがないのかもしれません。もしくは松本人志は別の違和感を感じてこのような発言にいたったようにも感じます。

私は漫才とコントの大きな違いは、漫才はより即興という可能性を観客に予感させるか、にかかっていると感じます。思わぬハプニングにも対応可能か、つまりまるで初めてやったような漫才にできるか、という点だと思います。かなり当たり前のことを言っていますが。

そう考えるとアンチャッチャブルやサンドウィッチマンなどの完全なコント漫才が、純然たる漫才として受け入れられた(聞いてはいませんが優勝しているので)のもこのポイントがあると思います。それらのコント漫才には観客に即興を予感させるものがいくつもあったということができると思います。たとえばダウンタウンの漫才も毎回毎回即興で形を変え、同じものは存在しません。

中田カウスの低得点から考える「即興性」

この漫才は中田カウスの採点は79点という低得点でした。ただ今田さんはコメントを振っていませんので真意のほどはわかりませんが、おおすじ先ほど説明した即興性に関する問題かと思います。

「ネタを練習している」など「即興性」自体をネタのなかで種明かししてしまったことが低得点の原因だとアメリカザリガニのユウキロックが指摘していますが、自分はもっと漫才の技法的なところでの得点のように感じます。

中田さんは「ネタを練習している」ことを前提として、それを忘れさせるぐらいの観客に即興を予感させる話芸を求めているような気がします。ジャルジャルの目指す完成は文字通りコントのように計算しつくされ完成した構成の漫才を目指しているようで、それは中田カウスの漫才観とは大きく異なると思います。

芸人の審査について

今回のネタは場外乱闘的にアメリカザリガニのユウキロックさんが「ジャンルを崩壊させる」「上にあげた審査員の問題」など指摘したり、ブラックマヨネーズの小杉さんが「あの漫才を何も知らへんで観たときに、『こいつらケンカ売っとるのか』って思ったのよ」というように、お笑いの世界ではタブーはないといっても、純然たる縦社会の上に成り立っているのだな、と感じました。ダウンタウンも横山やすしに「チンピラの立ち話」と説教されたこともありますね。

吉田「それは分かるよ。でも、そう思ってるんなら、やるべきじゃない、と思う。やるんやったら、漫才というスタイルに乗っかってやるしかしょうがない」

小杉「やらへんかったらエェのにって思うというのは、あの漫才を何も知らへんで観たときに、『こいつらケンカ売っとるのか』って思ったのよ」

吉田「漫才師は、そう思った方も多いと思いますよ」

小杉「漫才師で『医者やりたいねん』『ほな、やってみよか』って言ってるヤツのことを、こいつらバカにしてんのかって。だから、ジャルジャルの漫才を見た時、辛かったのよ。『ケンカ売ってきてるんかな』って思って」

http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-1909.html

だからこそ中田カウスさんの審査にはグッときたというサンキュータツオさんには完全に同意見です。査員の審査が割れてこそM1の価値が生まれると感じます。

MCバトルではスタイルの違いから生まれる戦いを「スタイルウォーズ」と呼び、盛り上がる試合として認知されています。M1においてニッチなスタイルは困惑を呼ぶだけで、エンターテイメント化できてないなあと改めて感じました。

まとめ

M12010のジャルジャルの漫才は、優れた構成力で観客の笑いを巧みにリードした完成度の高い漫才でしたが、その完成度の高い構成は「即興を予感させる隙」がなく、多くの審査員が考える漫才と異なるものだったということができるかと思います。ただジャルジャルは今後優れた構成をつきつめていきます。

今回でM1とジャルジャルの漫才の論点のようなものが定まってきたように感じます。ジャルジャルの漫才は「構成力が非常に優れた漫才」である。それが旧来の漫才観とは合致しない部分があるということがわかってきました。

その旧来の漫才観というのが漫才を定義するものなのですが、それが非常に曖昧であるということ。ざっくりいうと「ふたり(または複数)がまるで即興のように掛け合う話芸」なのですが、即興でないことは暗黙の了解で即興っぽくみせるということ。

そう考えると(テレビにおいて)即興トークに移行した(ネタのストックがなくなっていかざるをえなくなった)ダウンタウンというものは非常に漫才の時系列のなかで重要な気がします。

個人的には、、、

ただ個人的には「コンビニの店員やりたいんだよね」というフリが当たり前のようになって、何組もの芸人が「コンビニの店員」をやりたい状態になって、だんだんとこのフリがコード化されてきて、導入へのフリが雑になっているような気がしていたのは確かです。「コンビニの店員やりたいんだよね」といえば観客は理解してくれるだろうという雰囲気があり、この頃コント漫才が非常に嫌いだったことを覚えています。「コンビニの店員やりたいんだよね」ってそもそもなんだよと、勝手にやってくれよ、と。

M-1グランプリ2010感想~「衝動と意識と英断」ジャルジャル

各ブロガーや芸人のコメントがまとめられています。

168~2010お笑いベストテン③

準決勝の審査員の一人、かわら長介氏。コント漫才のフリの違和感と、ジャルジャルのネタが語られています。

私が観たM-1グランプリ2010(2)各組所感 前編

サンキュータツオさんのブログ。「何を意図したか」「どうなったか」の2点に絞り、ニュートラルな立場で語っていてわかりやすく、一番わかりやすいと感じた。

ジャルジャルが語る「M-1での漫才への批判」

012年05月12日放送の「ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!」にて、ジャルジャル・後藤淳平、福徳秀介がゲスト出演、ブラマヨが『こいつらケンカ売っとるのか』って思ったという場面も。

zaifとCoinboardをAPIと連携する方法

zaifとCoinboardをAPIと連携する方法を紹介します。

ZaifでAPIを取得する

アカウントをクリックしてアカウントページへ

各種サービスのタブをクリックすると開発者向けAPI をクリック

表示されたボタンを押す。

そうすると登録したアドレスに6ケタの数字が送られます。(受信フォルダにこない場合があるのでzaifで検索してみましょう)(2段階認証を設定している場合はまず2段階認証を済ませる必要がある)

Coinboard専用のAPIキーであることを示すためにCoinboardと入力、PermsにはInfoだけにチェックを入れ、他の項目にはチェックを入れない。

4回目 ジャルジャル「ジャルジャルポーズ漫才」の革新性について

ジャルジャルはM1-2017敗退後に開催されたTHEMANZAIにて、自己紹介漫才を披露しました。番組ではウーマンラッシュアワーが日本の時事問題を取り上げた漫才が話題となっていますが、ジャルジャルの自己紹介漫才はとても新しい漫才だったのでまとめていきたいと思います。

自己紹介漫才とは

ジャルジャルの自己紹介漫才は、漫才前のコンビ名を名乗るときにフリをつけようという始まりです。福徳が「ジャルジャルでーす」の掛け声と共に両手の親指で自分を指す、なので後藤は隣で指をさすように指示します。福徳ばかりが目立つフリに、後藤は均等になるように動きますが、福徳はいろいろな手を使って自分ばかり目立とうとする、という漫才です。

革新的な部分(ツッコミ不在のダブルボケ)

前半は説明した通りのオーソドックスな展開展ですが、中盤から「ガソリンスタンドでバイトをしていたときの変な客」のコントの展開になります。福徳はコント中に、中盤以前の目立つジャルジャルポーズを行い、後藤も負けじとジャルジャルポーズを連発し、ガソリンスタンドのコントをベースにジャルジャルポーズのやり合い、という漫才が展開されます。

この漫才の序盤はダブルボケはダブルボケなのですが、ツッコミ不在のダブルボケという構造になっています。ツッコミ不在のダブルボケはAマッソやメンバメイコボルスミ11、ダウンタウンの「あ研究家」などがありますが、ツッコミ不在の欠点として一部の観客が理解することができず笑えなくなってしまうという点があります。

ジャルジャルの自己紹介漫才は「ボケがやたらと目立とうとする」前半の漫才部分がフリにすることで、いやであるからこそ、後半の「コントのなかでどちらが目立つか張り合いになる」というツッコミ不在であってもわかりやすく、観客をうまくリードできていることがわかります。ツッコミ不在となるダブルボケでありながら観客をリードし続ける前半フリ後半ボケの構成はとても考えられていると思います。

さらにジャルジャルの自己紹介漫才では最終的に後藤が「どんな状況やねん」といってツッコミをいれて漫才を終えることでギリギリ漫才の形に引き戻しています。

漫才とコントの融合

この前半漫才フリ後半コントボケの構造は新しいコント漫才の形といえると思います。今までのコント漫才は「~がしたいんだよね」といってコントの状況に入っていくものが大半で、コントへ展開する必然性というものが描かれていませんでした。(笑えればなんでもいいといわれそうですが、やはり漫才は漫才の特性を、コントはコントの特性がいかされたものが評価されるべきだと思います。)

前半の漫才部分では「ポーズで自分だけ目立とうとする福徳に後藤がツッコむ」という漫才です。ここで二人の関係性は、本来の漫才の関係性である「間違ったことを言うボケに対して、正しいツッコミがツッコむ」という「修正」の関係性でありながら「目立とうとするボケに対して、もっとボケようとする」という「張り合い」という関係性としても成立する状態を作り上げることに成功しています。そして後半のコント部分では「ツッコむ」のではなく「張り合う」という関係性を継続させます。

まとめますと、ジャルジャルの自己紹介漫才の革新的なところは、前半の漫才「ポーズで自分だけ目立とうとする福徳に後藤がツッコむ」でツッコミとボケの「修正関係」と同時に、目立ちたい同士の「張り合い関係」という関係性をつくり、後半のコント漫才であえて本来のツッコミとボケの「修正関係」ではなく、目立ちたい同士の「張り合い関係」をエスカレートさせた。

漫才にある「ツッコミとボケの「修正関係」」をうまく、ツッコミ不在のダブルボケ状態である「張り合い関係」に移行させたため、ツッコミ不在でも違和感のない新しいコント漫才となった、といえるでしょう。

3回目 ジャルジャル「ピンポンパンゲーム」の革新性について

M1-2017の決勝で披露されたジャルジャルの漫才。今まで観たことのないネタは多くの人に印象を残しました。しかし審査員の点数は振るわずファイナリストに残らずに6位という結果になってしまいました。あのネタはなにが革新的で、何が評価されなかったのかを探っていきたいと思います。

なにが革新的だったか

まず一番の特徴はみたことのない構成となっています。ボケとツッコミという役割を使った言葉遊びが展開されます。こうボケたときはこうツッコめというルールをいくつか設定していき、言葉遊びをしながらルールの伏線を回収していく流れになります。

言葉遊びは「ボケとツッコミの言い合い」というかろうじて漫才と定義できる状況を残しつつ、展開していきます。そのふたりの様子自体が大きなボケとなっています。(ピーン・背筋のびてるやん・背筋伸びてるやん・ピーンというピーンの応酬部分)その軽妙なリズムは意味をあまり理解していなくてもコミカルで笑えるものとなっていました。

そして伏線が回収されたときは「笑い」という枠を飛び越えた「カタルシス」を生み出しました。こういった感覚は漫才では珍しいため、新しいものとして映りました。その部分が革新的だったといえます。

本来ダブルボケと呼ばれるものは笑い飯のように役割交換というものが可視化(替われなどの掛け声で)されていました。しかしジャルジャルは別のネタでボケとツッコミの交換自体を限りなく自然なものとすることに成功しています。(それについては別のところで触れたいと思います)そして今回のネタでは漫才自体の状況がボケという構造にすることに成功したといえるでしょう。

まとめますと、ピンポンパンゲームの革新的なところは、漫才自体を大きなボケに変化させた点と、大きなカタルシスを生み出した点で新しい漫才として映ったと考えることができます。

何が評価されなかったか

いくつかの革新的な部分を生み出しながらジャルジャルは敗退しました。ではどういった点が評価されなかったのかみていきたいと思います。

展開について

中川家礼二と博多華丸大吉の大吉からは、もうひとつ展開がほしいという評価コメントを残しています。確かにネタのカタルシスは中盤にやってきて、それ以降の展開は同じものでした。大吉はラジオにて「会話のなかのピーンという単語に勝手に反応してしまう部分を膨らませるのかなと思っていた」と言及しています。確かにそうすればさらに展開がおとずれもっとよくなるように感じます。しかし展開不足というわけではないでしょう。ふたりにとって別の部分で決めかねる部分があり、結果的に展開への言及になってしまったのではないかと感じます。

展開への欲望はボケとツッコミという漫才の型への渇望があるのではないかと感じています。該当のネタはボケとツッコミという上下関係がなくなり、漫才自体が大きなボケになっていることは説明しました。そのことによって漫才というよりは、ふたりの会話劇のコントという印象が強くなっていきます。漫才はボケとツッコミという関係のため、台本通りということはわかっていても、即興的な会話劇の可能性を残しています。それに反して完璧な会話劇は、システマチックになってしまい即興的なものへのイメージが生まれません。「会話のなかのピーンという単語に勝手に反応してしまう」は唯一の即興性を連想させる展開でした。審査員のふたりはこの点を指摘したのではないかと考えています。

「感心」について

松本人志は開催後に出演した番組で「ネタで客を感心させてしまったから優勝できなかった」と言及しています。また大吉もラジオにて「よく覚えたな、という感心がまずきてしまった。」と言っていました。これらのコメントから「カタルシス」の笑いの性質というものを考えることができます。

桂枝雀の緊張の緩和理論において「笑い」の性質を3つに分類しています。まず緊張の大緩和と呼ばれる状態で、緊張のない悟りの状態なので常に笑いが発生している状態です。次に喜びの笑いです。優勝した、や勝利したなどの持続性のある笑いです。最後に瞬間的な笑いです。本来お笑いは瞬間的な笑いの部分なのですが、ジャルジャルのネタのカタルシスは「喜びの笑い」という側面が強かったと考えると、観客の盛り上がりが必ずしも評価に直結していないことにも理解することができます。

まとめますと、ボケとツッコミが消滅した二人会話はシステマチックにならざるをえず、即興性を連想させる漫才特有の展開がないことに審査員に抵抗感を与えてしまった。またカタルシスによって生み出された笑いの性質が「喜びの笑い」という側面が強かった。ということがいえるでしょう。